SSブログ

雨にキッスの花束を - 今井美樹 [音楽]


今井美樹
『雨にキッスの花束を』
作詞:岩里祐穂 作曲:KAN 編曲:佐藤準
( 1990年8月29日 / アルバム『retour』収録 / フォーライフ )

          Official / Wikipedia  Words          

私がテレビドラマの中の女優さんに初めて恋をしたのは中学生の頃で、
『同・級・生』(1989年 フジテレビ)で見せる安田成美さんの困り顔にドキドキしていたのをよく覚えています。
同時期に『思い出にかわるまで』(1990年 TBS)で主演を務めていたのが今井美樹さんで、
私が映画やテレビの中でお芝居をする「女優」という仕事の存在を意識し始めたのがちょうどこの頃だったのかもしれません。
だからなのか、私は今井美樹と言えば、歌手と言うよりも女優さんというイメージが強くて、
もちろん『YAWARA!』(1989-1992年 読売テレビ)というアニメは毎週欠かさず見ていたんですけど、
この『雨にキッスの花束を』を今井美樹さんが歌っていたことをはっきりと認識したのはだいぶ後だったような気がします。

上で挙げた作品群はちょうどバブル景気の全盛期に制作され、
いわゆるトレンディドラマというジャンルが確立された時代でもあります。OLがそんなマンションに住めるか!という・・・(^^;
振り返ってみると、時代の空気感を反映した作品が多くて、映画やドラマというものは時代を映す鏡であることを実感します。

この『雨にキッスの花束を』も、「女性の幸せ」をストレートに表現したどこかお気楽さを感じる詞で、
それこそトレンディドラマのワンシーンを髣髴とさせるようなストーリー性があって楽しいし、
曲もアレンジも底抜けな明るさを感じさせ、やはり時代が表れている楽曲です。作曲はなんと当時まだ無名のKANさんで、
このアルバムが発表された直後に『愛は勝つ!』が大ヒットするという曰くのある曲でもあります。
今思えば、KANさんは大事MANブラザーズバンドと並んでバブル時代を象徴するアーティストですね。
バブル景気の功罪はいろいろあるとは思いますが、文化的にはとても健全な時代だったのではないかとしみじみ思います。

実は私は歌手としての今井美樹さんに興味を持ったことはまったくありません。
今井美樹さんは、ご結婚の前後でしょうか、
ある時点から突然「歌手らしさ」「アーティストっぽさ」を前面に出してきたような印象があって、
言い方は失礼かもしれませんが、「今井美樹というブランド」に酔いしれているかのような歌い方に感じられます。
正直なところ、私は今井美樹さんの「私巧いでしょ」的な歌い方は好きになれません。

それでもこの曲に魅力を感じるのは、あの時代が反映されているほかに、
当時の今井美樹さんが持っていた魅力のひとつである「自然体」がその歌い方によく現れているからだと思います。
歌でもお芝居でも、「自然体」は当時の今井美樹さんの大きな武器だったはずで、
いい具合に力が抜けた歌い方があの時代が持っていた「能天気なお気楽さ」を表現するのに大きく貢献していると思います。

これは歌に限ったことではありませんが、「巧さ」だけが人を惹きつける要素ではないと思います。
プロならば巧いのは当たり前。真のプロに求められるものは「表現力」だと思います。
表現力とは、何かを伝える力です。そして、アーティストが伝えるべきことは自分が持っている技術ではありません。

この曲を巧く歌おうとするとどういうことになるか、参考までにこちらをお聴きください。
強いて言えば、初音ミクが一番聴けるという皮肉・・・


nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

(3)鈴木先生 [ドラマレビュー]

wall03_1280.jpg

『 鈴木先生 』
第3回
( 2011年 テレビ東京=アスミック・エース 公式サイト
演出:橋本光二郎 脚本:岩下悠子 出演:長谷川博己、臼田あさ美、山口智充、田畑智子、富田靖子、でんでん

本作に対しては観る前からそれなりの期待はありましたが、昨年新設されたこの枠のここまでの2作品は期待通りの出来とは到底言えませんでしたので、再び大失敗という可能性も覚悟はしていました。本作は、私が大好きな映画作品をたくさん送り出しているアスミック・エース製作ですが、そもそも映画製作が本業のアスミック・エースに連続ドラマのノウハウがあるとは思えず、漠然とその点は諸刃の剣になるだろうという印象を持っておりました。レビューにも書いたとおり、私は第1話を観た時点で早くもこのドラマを高く評価したものの、第2回以降大きく失速する連続ドラマもこれまでたくさん観てきましたから、このドラマトータルの評価は最終回を観るまでは不可能ではあります。しかし、今週回を観て、本作が最終的に「良質な連続ドラマ」になることはほぼ間違いないと思うようになっています。

今週は、ここまで鈴木先生(長谷川博己)とのからみが多かった山崎先生(山口智充)が壊れて退職することになり、自らを山崎先生の姿に重ねた鈴木先生が、生徒の小川蘇美(土屋太鳳)に対する特殊な感情に歯止めをかけようとするという大変重要なエピソードだったと思います。山崎先生が第3話で「どうにかなってしまう」ことは知っていましたが、山口智充さんがとてもいい味を出していたので、ここで姿を消してしまうのはとても残念に思っていました。しかし、山崎先生という存在がこんなに重要な役割を果たすことになろうとは思いもよらないことで、しかも第1話以来、山崎先生が見せたひとつひとつの行動や台詞というものは、ほぼそのすべてが今回の伏線となっており、この脚本が大変緻密に練られたものであることをはっきりと認識しました。

今回露呈した山崎先生の鈴木先生に対する嫉妬心の下地となる描写は、第1話の冒頭からすでに始まっていたということになります。クラス編成会議で鈴木先生が作為的に小川蘇美を自分のクラスに入れたことを山崎先生は敏感に感じ取っており、振り返ってみると第3話で起こった事件の直接的な発端はここにあったわけです。そして、山崎先生が設定した合コンで鈴木先生が彼女を作ってしまったことも山崎先生の鈴木先生に対する対抗心に火をつけたひとつの要素でしょう。第2話では、鈴木先生は出水正(北村匠海)の問題行動について山崎先生に相談していますが、これをまったく参考にしなかったほか、給食問題でも山崎先生の一枚も二枚も上を行く思考で、これをひとまず決着させています。つまり、山崎先生が鈴木先生に嫉妬する状況は、実はこれまで山崎先生が登場したシーンのほぼすべてをもって醸成されてきたと言えるでしょう。

今回の序盤で、飲みに誘った鈴木先生に対して山崎先生はこれらの事実に触れた上で誘いを断っており、二人の関係は山崎先生の中にはっきりと生まれた嫉妬心によって、修復し難いものへと変化したことが描かれていました。これに追い討ちをかけるように山崎先生のクラスの生徒が鈴木先生に相談を持ちかけるという状況に接し、二人の関係はさらにこじれていきます。生徒からの人気、教師としての能力、そして人格のすべてにおいて鈴木先生に劣る山崎先生という図式は、第2回までの些細なシーンや何気ない台詞の積み重ねによって成立しており、今回、生徒による人気投票の結果を知った山崎先生の唐突とも言える精神的崩壊に対する裏付けはしっかりとなされてきていたわけです。このあたりは脚本上の緻密な計算がつぶさに感じられる部分だと思います。今回、山崎先生が姿を消したことで、個人的に今後も注視していきたい、あるいは改めて振り返ってみたいと思っている登場人物は、鈴木先生の恋人・秦麻美(臼田あさ美)です。小川蘇美を交えた「擬似三角関係」に発展するのはどうやら避けられないようです。

さて、今回描かれた内容・テーマは、もちろんフィクションではありますが、果たしてドラマ向けに誇張されたエピソードだったと言い切れるでしょうか。今回山崎先生が依願退職した理由はあくまでも倫理上の問題であって、法に触れたわけではありません。しかし、現実世界では刑事事件として顕在化する教師の淫行・不祥事というものは後を絶たないわけで、このドラマが描いたものは、誇張どころか学校の先生が日常的に抱えた精神的課題だったのではないでしょうか。このドラマがこれまでの学園ドラマと一線を画するのは、生徒の精神的課題というよりも、先生の精神的課題に堂々とスポットライトを当てている点だと思います。このドラマに「現実味」というものを大いに感じると第1話のレビューで書いたのは、先生の思考回路や精神構造がしっかりと描かれているからです。

今回の山崎先生の言動はとても滑稽で醜いものではありましたが、私はこれを「ドラマだから」という一言では片付けられない重要な問題提起だと捉えています。第1話における山崎先生の台詞「教師の性欲対策・・・」は、決して荒唐無稽な発言ではなく、現実的な問題として考えなければならないのかもしれません。このドラマが一貫して描いているものは「先生だって人間である」ということなのです。今回山崎先生が露呈させてしまった精神的課題は、鈴木先生が日常的に抱えていたものとなんら変わらない、同質のものであり、鈴木先生の「向こう側には行かない」という台詞は、自分の精神を冷静にコントロールしようとする決意表明です。おそらく彼にはそれが可能で、小川蘇美に対する特殊な感情は妄想までで完結させることができるはずです。先に触れたとおり、今週は鈴木先生が「一線を越えない」ことがはっきりした重要な回だったと思います。

最後に改めて触れておきますが、このドラマにおける鈴木先生のモノローグシーンはどれをとっても、演出、脚本ともに本当に秀逸です。彼の思考はほとんどが自問自答で成立しており、その中で初めて自覚する自分の身の程(ほど)もあって、彼の「人間らしさ」がとてもうまく表現さているのがこのモノローグシーンだと思います。「雑念消去の術」などは、絶対に他人には言えないきわめてパーソナルな思考であり、程度や質の差はあれ、多くの人が自らの感情をコントロールするために用いている思考方法なのではないでしょうか。鈴木先生が我々と同じ市井の人間であるところが、このドラマが魅力的である理由のとても大きな部分を占めているような気がしています。

関連記事 : (10)鈴木先生 (2011-06-30)
(9)鈴木先生 (2011-06-24)
(8)鈴木先生 (2011-06-19)
(7)鈴木先生 (2011-06-10)
(6)鈴木先生 (2011-06-05)
(5)鈴木先生 (2011-05-26)
(4)鈴木先生 (2011-05-19)
(2)鈴木先生 (2011-05-06)
(1)鈴木先生 (2011-04-29)

<付記>
第3話が無料配信中です。
http://gyao.yahoo.co.jp/special/suzukisensei/
無料配信終了後は有料コンテンツに移行します。

<参考 : ネット局>
 ・ テレビ東京(関東広域圏)
 ・ テレビ北海道(北海道)
 ・ テレビ愛知(愛知県)
 ・ テレビ大阪(大阪府)
 ・ テレビせとうち(岡山県、香川県)
 ・ TVQ九州放送(福岡県)
 ・ 岐阜放送(岐阜県)
以上が同時ネット。以下は放送日時が異なる。
 ・ テレビ和歌山(和歌山県)※13日遅れ
 ・ テレビ熊本(熊本県)※15日遅れ
 ・ 新潟テレビ21(新潟県)※40日遅れ
http://www.tv-tokyo.co.jp/suzukisensei/onair/index.html


タグ:鈴木先生
nice!(3)  コメント(4)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ

おにいちゃんのハナビ [映画レビュー]

おにいちゃんのハナビ [DVD]

[ DVD ]
おにいちゃんのハナビ

( バンダイビジュアル / ASIN:B004CYFP4Q )

[ Blu-ray ]
おにいちゃんのハナビ
( バンダイビジュアル / ASIN:B004CYFPZ0 )

『 おにいちゃんのハナビ 』
( 2010年 ゴー・シネマ 119分 )
監督:国本雅広 脚本:西田征史 出演:高良健吾、谷村美月、宮崎美子、大杉漣
          Official Wikipedia / Kinejun          

2011050801.jpg
(C)2010「おにいちゃんのハナビ」製作委員会

Dear Friends』(2007年 東映)のレビューで、病気を取材した映画の分類を試みたことがあります。私は本作を観て、それがとても回りくどくて理屈っぽい考察であったことに気がつきました。この種の映画を2種類に分けるのは確かに可能なのかもしれませんが、そのことはもっと単純にこう説明されるべきでした。つまり、同じ病気を取材した映画でも、感動がただ単に「悲しみの涙」で成立する作品と、感動が「前向きで爽快な涙」で成立する作品の2種類があって、どちらが最終的な感動のベースに存在しているのかは、その作品の印象を真逆のものにも変える大変重要な要素になると思います。本作は後者であって、この種の「前向きな涙」の本質を捉えるならば、「家族の再生」という言葉で表現できるかもしれません。これと似たようなテーマが『幸福な食卓』(2007年 小松隆志監督)や『トウキョウソナタ』(2008年 黒沢清監督)といった映画で描かれていましたが、これらの作品の場合、最終的に我々の感情に圧し掛かるのはその強烈なメッセージ性であり、それに対して本作は、我々の感情を解き放つような前向きな余韻を残す作品と言うことができると思います。

本作のテーマの一要素が「家族の再生」だとして、その表現手法を振り返ると、序盤から描写される引きこもりの主人公・須藤太郎(高良健吾)とその父親・須藤邦昌(大杉漣)の微妙な関係性は大変興味深いところです。本作のメインストリームは主人公の成長物語であって、それとともにその家族の有り様(よう)が良好なものに変化していくところにストーリー上もうひとつの重要な流れがあり、病気の妹・須藤華(谷村美月)の想いと尽力がこの二つの流れをつなぐように介在するのがこの物語の概観だと思います。本編では序盤に太郎が引きこもりになるきっかけとなった半年前のエピソードがカットバックされており、これがこの家族を崩壊させた直接的な原因ということになります。

 「アンタ、オレのために何かしてくれたことあんのかよ」

父・邦昌が太郎に対して手を上げたのは、これが初めてだったのかもしれないと想像させます。このシーンは親子の感情がほとんど初めて露骨にぶつかり合った瞬間を描いており、息子は言葉で、父親はその行為で、互いの鬱積した感情を発散させてしまいます。この時、一つ屋根の下に暮らしながら今まで知らなかった他者の感情を思い知り、言葉と行為で唐突に現れた自らの感情に驚き、戸惑ったのは二人とも同じだったのかもしれません。つまり、これは二人の気持ちの齟齬が生み出した衝突でありながら、結果的にはその後の二人に共通した性質の精神的課題が生まれた瞬間であり、表面的には殺伐としたシーンでありながら、二人が潜在的に抱えていた、あるいは目をつむってきた家族の問題をはっきりと認識した瞬間と言えると思います。ただし、その課題に対してどう対処していいのか皆目見当が付かないのがこの時の二人でもあるわけです。つまり、この二人の関係を修復することが家族再生のためのキーポイントであり、それを結果的にライフワークとしたのが妹の華だったわけです。

二人の関係のもつれを自らの病気のせいだと考えた華は、「家族4人の食卓」を実現するために、まずは兄のひきこもりを解消させようとします。華はアルバイトを見つけるために半分冗談で兄を女装させますが、太郎がその姿を父親に見られてしまったシーンはとてもよくできていたと思います。このタイミングの悪さこそが現時点でのこの親子二人のちぐはぐな関係を象徴しているような気がするし、このときの父親の頭ごなしの態度もまた息子の気持ちに寄り添う術を知らない不器用な性格を象徴しています。そして、太郎は父親の罵倒に(心の中で)憤慨し、見返してやりたいと思ったからこそ、真剣にアルバイトを探す気になったのでしょう。

このシーンに始まる父・邦昌の一連の心情描写は、地味ではありますが、大杉漣さんのお芝居もあいまってとても印象に残っています。アルバイトを始めた太郎の写真をもの欲しそうに見つめるシーンや仕事の合間に家族の写真を見つめて溜息を付くシーンなど、しっかりと父親の心情の流れにもスポットライトを当てているところに本作のクオリティの高さが現れていると思います。そして、彼の心情におけるひとつの転換点を示しているのが、あの一件以来初めて息子と夕食を共にするシーンで、二人の間にあった心の壁を初めて積極的に打ち破ろうとします。それが卵焼きをつまんで息子に同意を求める「うまいな」という台詞ひとつで表現されていたところは実に秀逸でした。このときの大杉漣さんの間のお芝居は絶妙で、二人のわだかまりが今まさに解けていく様がひしひしと伝わってきました。しかし、この食卓には華の姿はなく、「家族4人の食卓」が実現しないことが示唆されており、切なさも併せ持つシーンであることにも触れておきます。

さて、この物語のメインストリームである主人公の成長の描写についても掘り下げていきたいと思います。私は、太郎の引きこもりの根底にあるものは「感動からの逃避」だと捉えています。ここでいう感動とは喜びや怒り、哀しみといったあらゆる感情を含んだものであり、太郎は馴染めなかった高校生活の中で自分以外の「他者の感動」に触れることに恐怖感を抱くようになり、先に触れた父親の怒りに接したことで、その恐怖感はマックスに到達してしまいます。自分以外の他者との交わりを絶てば、その恐怖感からは逃れられますが、いつしか自分も「無感動」になっていくのが引きこもりというものなのでしょう。つまり、太郎の成長描写とは、彼が「感動」を取り戻していく過程そのものであり、そのきっかけを付与したのが妹の華ということになります。というわけで、太郎が獲得した「感動」の描写をいくつかピックアップしていこうと思います。

序盤、新聞配達先のおばあちゃんの感謝の気持ちに触れた瞬間は、とてもわかりやすいところだと思います。この時点では、太郎は自分の感動をうまく表現できずにおり、何度もおばあちゃんに新聞を届けるうちに、次第に自分の感動をおばあちゃんに伝えたいと思うようになるところが太郎のひとつの成長描写ということになります。そして、雨の日の配達でおばあちゃんからカイロをもらったときの「あったかいです・・・」という言葉が太郎なりの感動の表現だったわけです。さらに太郎が言葉として直接的に感動を表現したのが、妹を自転車の後ろに乗せて坂道を下るシーンで、彼の「気持ちいいな」という言葉は感動以外の何ものでもありません。

また、何気ないエピソードとして巧みに組み込まれていたのが、配達経路にある新築の家の住人がどんな人かを兄妹で言い当てようとするシーンで、その答えが華の死後に明らかになるのは、どこか切なさがあってもおかしくはないところですが、このエピソードが太郎の感動を引き出すために存在していたのは心憎い趣向だったと思います。メガネをかけた新婚夫婦を見た太郎が表情を緩めて「引き分けだな・・・」とつぶやくシーンは、終盤にきて彼の心の成長を印象付けるためのものであり、華が生前に撒いておいてくれた感動の種がまさに花開いた瞬間だったわけです。

太郎の感動の表現において、演じた高良健吾くんのお芝居に触れないわけにはいかないでしょう。序盤におけるひきこもりの青年を、彼は生気のない目のお芝居で巧みに表現していました。その目はあるゆるものに「無感動」を決め込んだ目であり、実際、華に連れられて街に出ても、何も見ようとしないし、何も感じようとしません。つまり、太郎の成長はこの目に輝きが戻ることで表現されていると言えます。それが最もわかりやすく現れたのが、終盤、「翠嶂会」を脱会することを決めた太郎がスーツを着て、その旨を仲間たちに伝えるシーンだったと思います。このシーンで太郎は、まっすぐに相手の目を見つめ、自分の気持ちを率直に伝えようとします。その目は輝きを取り戻しており、もはやいささかの迷いも感じられません。

さらに、前段で触れた「家族の再生」という側面から太郎の感動の描写を振り返ってみます。両親が「翠嶂会」のねり歩き行列に息子を参加させて欲しいと懇願しているところを太郎が目撃した瞬間は、彼にとって父親とのわだかまりを完全に洗い流すほどの感動があったに違いありません。自分のために両親が土下座までしてくれている・・・序盤に描写された家族崩壊のシーンで太郎が父親に対して暴言を吐かなければならなかったその気持ちがついにこのとき報われたのです。

そして、太郎にとっても我々にとっても、感動のクライマックスが花火が打ちあがるラストシーンであることは言うまでもありません。ラストシーンについては敢えて言及しません。この映画を観た人それぞれが前向きな涙をボロボロ流し、その爽快感に浸って欲しいと思います。

最後に、本作の印象を決定付けたと言っても過言ではない重要な演出に言及しておきたいと思います。映画やドラマで病気を取り扱う場合には、病気という要素をただ単に悲しみで仕立てるか、病気という要素の中に何らかの前向きさを見出すかにおいて、作り手のバランス感覚は大変重要で、そのことは冒頭でも触れたように作品の印象を真逆のものにも変えてしまうものだと思います。本作の場合、そのあたりのバランス感覚が、主人公の家族以外の第三者的登場人物のキャラクターによく現れていて、たとえば、華のクラス担任・有馬幸生(佐藤隆太)の華に対する接し方とか、華の主治医・関山高志(佐々木蔵之介)が登場するシーンの明るい挨拶の仕方とか、あるいは病院の屋上で会話した妊婦・藤沢道子(能世あんな)の存在などによって、どこか病気に悲しみが入る余地を与えないような工夫がなされていました。彼らの出番は決して多くありませんが、物語の要所で「悲しみ」を打ち消す役割を見事に果たしており、ラストの「前向きで爽快な涙」にうまく橋渡ししてくれたとても重要な存在だったと思っています。もちろん華を演じる谷村美月ちゃんの笑顔がその点に大きく貢献していたことにも触れておかなければなりません。

近年、病気を取材した映画が数多く発表されていていますが、『余命1ヶ月の花嫁』(2009年 東宝)に代表されるようにその取り扱い方を作り手が勘違いしてしまっている作品が実に多くて、私自身、病気を題材とした作品と聞いた時点で、嫌悪するようになってしまっていたところもありました。しかし、本作のように物語の軸とはひとつ外れたところに病気という要素を置くことは決して悪いことではないし、演出によって病気が持つ悲観的側面を打ち消したり、あるいはそこに前向きさを吹き込んだりすることは十分に可能であって、重要なのは作り手のバランス感覚であることを本作を観て改めて認識しました。作り手が病気に対して真摯に向き合い、病気を抱える人たちの想いに真摯に寄り添ったかどうかは、その作品を観れば一目瞭然であることを映画製作者は肝に銘じて欲しいと思います。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★
 演出 ★★★★
 映像 ★★★★
 音楽 ★★★★


nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

(P)岳-ガク- [映画プレビュー]

2011050601.jpg

『 岳-ガク- 』
( 5月7日公開 東宝 125分 公式サイト )
監督:片山修 脚本:吉田智子 主演:小栗旬、長澤まさみ

※ この記事は、作品を鑑賞する前に執筆したプレビューです。

ここ数週、長澤まさみちゃんが引くぐらい映画宣伝のためにテレビに露出していますが(^^;、
東宝としてはこれ以上、看板女優で失敗するわけにはいかないということなのでしょう。
これだけテレビで映画タイトルを連呼すれば、さすがに興行的に失敗する可能性は小さいとは思いますが、
純粋に「女優・長澤まさみ」のことを思うと、この映画がヒットしても根本的な問題は解決されないような気がします。
正直言って、この役が彼女に合っているとは私には思えません。
一方で、私は小栗旬くんがこの映画で新境地を開拓してくれているような予感を覚えています。

私はこれまで小栗旬という俳優を世間が言うほど評価したことはありません。
というのも近年の彼を見ていると、実は身の丈に合った役を演じてこなかったのではないかと私は考えています。
以下に私が観たことがある主な小栗旬出演作品を列挙します。

 『ロボコン』(2003年 東宝)
『天国のダイスケへ~箱根駅伝が結んだ絆~』(2003年 日本テレビ)
『救命病棟24時 第3シリーズ』(2005年 フジテレビ)
『キサラギ』(2007年 ショウゲート)
『天地人』(2008年 NHK)
『東京DOGS』(2009年 フジテレビ)
『獣医ドリトル』(2010年 TBS)

この他に、『世界ウルルン滞在記』(2001年)と、伝説の(?)『情熱大陸』(2007年)を拝見しています。 

そんなにたくさん彼の作品を観ているわけではありませんが、
『天地人』以降、彼が演じる役柄が変わってきているのがなんとなくお分かりいただけると思います。
『天地人』では主人公・直江兼続の盟友だった石田三成という超重要な役を演じてかなり注目されました。
このドラマのストーリーを技術的な観点から振り返ると、
私は石田三成というキャラクター作りはとてもうまくいっていたと思っています。
しかし、果たして小栗旬くんがこの役をしっかりと手の内に入れていたのかというと、疑問符を付けたくなってしまいます。

翌年の『東京DOGS』では、明らかにこのときの石田三成像を意識したキャラクター作りがなされており、
これは、大河ドラマ
を観たフジテレビプロデューサーの「錯覚」に基づいて作りあげられた役柄だったと思っています。
小栗旬くんのファンならば、このドラマの中の彼を「かっこいい」と思えたかもしれませんが、
私には彼が「とんでもないキャラクター」に最後まで戸惑い、苦しんでいたように見えました。
ちなみに私は『東京DOGS』を月9史上屈指の「隠れ駄作」と評しています。

この延長線上にあるのが、『獣医ドリトル』で、
小栗旬に対する周囲のイメージによって作り上げられた役柄に
ようやく彼自身が追いついてきたというような印象を持って観ていました。
だたし、同時に彼の「居場所」はここではないような気がしていたのも事実です。

2011050602.jpg

私は、この『岳-ガク-』の劇場用予告編(下の予告編とは異なるようだ)を初めて観たときに
なんとなく小栗旬の居場所はここなのではないかと思いました。
そう思わせてくれたものは、彼の「笑顔」です。
そう言えば、昔から小栗旬とは、よく笑う、笑顔が素敵な青年だったことを今ごろ思い出した気がしました。
小栗旬初監督作品『シュアリー・サムデイ』などを観ても、実は、彼はいい意味での精神的な幼さを保持した俳優であり、
私は、(映画監督としては話は違うが)俳優としてはこれからもそういう精神をひとつの武器としていくべきだと思っています。
この映画の中で見せる「笑顔」こそが、俳優・小栗旬の最大の武器となる可能性を大いに秘めているような気がしています。

一番上に貼り付けた画像は、公式ホームページでダウンロードできるものなんですけど、この笑顔なんです。
実は、私はこれをPCの壁紙にしていて、それぐらい魅力的な表情だと思っています。
惜しむらくは、長澤まさみちゃんとの2ショットバージョンも作って欲しかった・・・。

お二人の魅力的な表情がスクリーンの中でたくさん観られることを期待しています。

関連記事 : 岳-ガク- (2011-05-31)


タグ:長澤まさみ
nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

(2)鈴木先生 [ドラマレビュー]

wall02_1280.jpg

『 鈴木先生 』
第2回
( 2011年 テレビ東京=アスミック・エース 公式サイト
監督:河合勇人 脚本:古沢良太 出演:長谷川博己、臼田あさ美、山口智充、田畑智子、富田靖子、でんでん

本作が学園ドラマの既成概念を打ち破ることに成功しているのはもはや間違いなく、その本質を端的に表現すれば、「大人のための学園ドラマ」ということになるでしょう。そもそも初回のエピソードも「性教育」を題材としており、それもかなりヘビーなシーンもあって、ちょっと家族そろって観られる内容ではありませんでした。しかし、本作が「大人のための学園ドラマ」である理由はどうやらそういうことだけではないようです。本作は、大人が保持している当たり前の価値観を打ち砕き、すべての大人に再考を促すような性質を持ったドラマなのではないでしょうか。

このドラマは日常に普遍的に存在するグレーゾーンにスポットライトを当てている作品だと私は考えています。大人の価値観というものは、長く生きている分だけ、子供よりも白黒をはっきりさせてしまっているところがあって、普通に生活していると、今さらそれを疑って見直す作業に取り組むこともないし、そもそも気にも留めずにスルーしてしまっているのが大人というものなのでしょう。しかし、子供は違います。毎日毎日、グレーゾーンに直面し、その都度立ち止まって悩んでいるのです。

すでに白黒がはっきりしている大人にとっては、子供が何に悩んでいるのかを理解するのは困難な作業であり、そのことを象徴するのが、今回、出水正(北村匠海)の問題行動の原因を必死に見抜こうとする鈴木先生(長谷川博己)の姿だったと思います。そして、それがかつて鈴木先生自身も悩んだことがある事象であるところが、このエピソードにさらなる深みをもたらしています。つまり、鈴木先生はその事象に対して自分らしさを封印することで折り合いをつけて生きてきたわけで、とっくの昔に決着が付いた(=白黒付けた)事柄だからこそ出水の問題行動の理由をすぐには理解できなかったのです。でも、当たり前ですが、鈴木先生は大人は大人でも「先生」であるところが重要で、彼は出水正の問題行動の中にグレーゾーンを見出し、そこに積極的に飛び込んでいこうとするのです。

この問題に直面した普通の大人の口をついて出てくるのはせいぜい、「そんなことは止めなさい。どうしてそんなことをするんだ」といったものでしょう。もっともこのドラマの場合、鈴木先生の機先を制して出水自身に「そんなこと聞くなよな」と言わせてしまっています。前回も同様でしたが、大人(先生)が子供(生徒)から難題を突きつけられ、その問題に向きあう中で物事の本質を思い知るのが、このドラマの大雑把な図式ということになると思います。そう考えると、鈴木先生が好意を抱く生徒・小川蘇美(土屋太鳳)の存在は実に興味深いところで、つまり、彼女はあらゆる事象に介在するグレーゾーンの存在(=物事の本質)にすでにはっきりと気がついている少女であり、実際、鈴木先生よりも先に出水の行動が意味するところを理解していました。だからこそ鈴木先生は彼女を「スペシャルファクター」と評し、知らず知らずのうちに惹かれ、無自覚に妄想してしまうのでしょう。

もうひとつのエピソードにも触れておきます。給食メニューのエピソードは、実に深くて重みのあるものだったと思います。あの職員会議の風景はリアルすぎます。生徒からアンケートをとって、数字を見て物事を判断し、解決しようとするのは、大人の価値観に立てば、一見有無を言わせないほどの正しさを持っているような気すらしてしまいます。そして、江本先生(赤堀雅秋)の「みんなが美味しく食べられるようになんらかの指導していく」という言葉は、先生の方便としてはまっとうなものだし、私自身納得しかけてしまいました。私はこの意見に対する鈴木先生の台詞を聞いて、はっとしました。そんな指導はできないのが教師なのです。

 「強制力のない今の我々には、とても欲している人もいるひとつのメニューが、
 こうして消えていく寂しさを、せめて生徒たちに印象付ける・・・それぐらいしか術がない・・・そう思うんです」

鈴木先生が出したこの結論は、グレーゾーンが存在することの大切さを意味していると思います。グレーゾーンのそこかしこに散在する生徒たちの気持ちをできる限り掬い取ろうとする・・・これこそが先生の仕事であり、大人が見失ってしまっている物事の本質だと思います。これは、出水正の問題行動についても同様です。この問題の解決策に思い悩んだ鈴木先生が出水の両親と面談することによって、何らかのヒントを得ようとするところは、もはや彼らしい行動ということになります。

 「教育とは、折に触れ・・・ではないでしょうか」

この出水の父親(小木茂光)の言葉は、奥が深すぎます。問題を先送りにし、曖昧なままにしておくことは決して悪いことではない・・・そんなことを言ってしまう学園ドラマがこれまであったでしょうか。そして、何よりこの言葉自体が曖昧さを含蓄した表現であり、この言葉の意味と重みを瞬時に理解し、それをすぐにでもフィードバックさせようとするところが、鈴木先生の教師としての非凡な能力ということになります。

私は、今週回を観ながら、「深い・・・」というつぶやきを連発していました。子供の疑問や悩んでいる内容とは、大げさに言えば「哲学」だと思いました。なんでもかんでも白黒はっきりさせようとするのは大人の悪い癖だと思います。本作は、我々大人が自らを顧みて、深く思考するドラマなのです。我々は、このドラマを通じて、自分が当たり前のように正しいと信じてきた価値観を疑う機会を与えられているということを自覚しなければならないと思います。

さて、このドラマをご覧になられていない方がここまで読んだら、とても硬派なドラマと思われるかもしれません。ところが、まったくお堅いドラマなんかではないところが本作が良作たる所以だと思います。冒頭における鈴木先生と小川蘇美のからみにはいきなり爆笑したし、最後も鈴木先生の小川蘇美に対する妄想で締めくくっており、結局このドラマは、笑いとシリアスの触れ幅で表現する社会派エンタテインメント作品ということになるんだと思います。今までになかったタイプのテレビドラマであることはどうやら間違いないようです。

関連記事 : (10)鈴木先生 (2011-06-30)
(9)鈴木先生 (2011-06-24)
(8)鈴木先生 (2011-06-19)
(7)鈴木先生 (2011-06-10)
(6)鈴木先生 (2011-06-05)
(5)鈴木先生 (2011-05-26)
(4)鈴木先生 (2011-05-19)
(3)鈴木先生 (2011-05-13)
(1)鈴木先生 (2011-04-29)

<付記>
第2話が無料配信中です。
http://gyao.yahoo.co.jp/special/suzukisensei/
無料配信終了後は有料コンテンツに移行します。

さらに再放送の予定があります。
第1話 5月7日(土)12:58~ (関東ローカル)
第2話 5月8日(日)16:00~ (ネット)
http://www.tv-tokyo.co.jp/suzukisensei/news/index.html

<参考 : ネット局>
 ・ テレビ東京(関東広域圏)
 ・ テレビ北海道(北海道)
 ・ テレビ愛知(愛知県)
 ・ テレビ大阪(大阪府)
 ・ テレビせとうち(岡山県、香川県)
 ・ TVQ九州放送(福岡県)
 ・ 岐阜放送(岐阜県)
以上が同時ネット。以下は放送日時が異なる。
 ・ テレビ和歌山(和歌山県)※13日遅れ
 ・ テレビ熊本(熊本県)※15日遅れ
 ・ 新潟テレビ21(新潟県)※40日遅れ
http://www.tv-tokyo.co.jp/suzukisensei/onair/index.html


タグ:鈴木先生
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ