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半分の月がのぼる空 [映画レビュー]

半分の月がのぼる空 [DVD]

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半分の月がのぼる空
( ポニーキャニオン / ASIN:B003YU881Q )

 

[ Blu-ray ]
半分の月がのぼる空
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『 半分の月がのぼる空 』
( 2010年 IMJエンタテインメント=マジックアワー 112分 )
監督:深川栄洋 脚本:西田征史 出演:池松壮亮、忽那汐里、大泉洋
     Official Wikipedia / Kinenote      

2013111700.jpg
(C)2010 映画「半分の月がのぼる空」製作委員会

最近で言えば、『今度は愛妻家』(2010年 行定勲監督)のような良質なサプライズが用意されている作品、また、巧妙に秘匿されていて観客は終盤まで気付きようがないが、本編が二つの時系列を交互に繰り返す方法によって構成されているという意味では、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年 行定勲監督)のような演出手法を採用している作品でもある。この点から深川栄洋監督がその作風に行定勲監督の影響を強く受けているか、あるいはそうでなければ、行定勲監督のように計算し尽くされた緻密な演出プランを用意して撮影に臨むタイプの映画監督であることが窺える。ストーリー的にも多分に『世界の中心で、愛をさけぶ』の影響を感じさせる構成で、いわゆる病気を絡めた「純愛路線」の映画だが、本作が時流に乗ったとか、単なる模倣に止まらない作り手の真摯な意志を宿している作品であることはしっかりと伝わってくる。それは本作が表面的なプロットや技術の借用ではなく、監督がそれらを用いて何を表現しなければならないのかを的確に汲み取った上で、本作の演出プランを構築しているからで、むしろ一時期濫造された感のあるこの路線の作品でその存在感を示してしまうところにこそ大きな意味を感じるのである。本作は、『白夜行』(2011年)や『洋菓子店コアンドル』(2011年)同様、監督の力量をつぶさに感じることができる作品であり、またしても深川栄洋監督の非凡な才能を見せ付けられた印象だ。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

『世界の中心で、愛をさけぶ』が現在という時系列を軸に物語が進行し、そこにもうひとつの時系列が回想ないしフラッシュバックという形で挿入される構成を基本としていているのに対して、本作はどちらかと言えば過去をメインとしており、そこに挿入されていく現在という時系列はラストのサプライズに向けて仕込まれている伏線の意味合いが強い。本作の場合はストーリー上、観客に二つの時系列が存在することすらも意識させない構成になっていて、実は決して同じ画面に映ることのなかった主要な登場人物があたかも同じ時系列を生きているかのような描き方がなされている。つまり、極めて緻密で周到な演出的意図をもって過去と現在の境界を曖昧にしている点が本作最大の特徴で、我々が二つの時系列の存在に気がついた瞬間とは、良質なサプライズを提供していると同時に感動の基点にもなっており、物語を振り返って必死に頭を整理する中、否応なく収束していく物語の結末を目にした我々は、幾重にも重なった複雑な感動と余韻に襲われるのである。

本作において、(結果的に)過去と現在を結び付けていたのは、過去と現在の舞台が同じ病院であることと看護師の亜希子さん(濱田マリ)の存在、そして夏目先生(大泉洋)が元心臓外科医であるという事実などだが、これらの要素は同時に二つの時系列の存在を観客に対して秘匿する役割を見事に果たしている。特に心臓外科医を辞めて内科医として勤務している現在の夏目先生と難治の心疾患を抱えて入院している過去の里香(忽那汐里)が登場するシーンは、それぞれが置かれている状況説明とともに絶妙な構成によって提示されていて、この二人が同じ時に同じ場所にいると考えない人はまずいないと思うし、かなりの数の映画を見ている人でも初見でこの演出的トリックを見破るのは至難の業だと考えられる。細かいところだが、隣り合う過去のシーンと現在のシーンは夜と夜、朝と朝、あるいは深夜から早朝というように小さな時間の単位を同一、もしくは連続にしている点も見逃せない。これによって過去に現在が溶け込み、大きな意味での時間的境界をより曖昧にすることに成功している。以下に中盤までの大まかな時間的配列を示しておく。時間の境界線に注目して本作を鑑賞するのも一興だろう。

 過去
<夜→昼→夜>
現在
<夜>
過去
<深夜>
現在
<早朝>
過去
<朝→夜>
現在
<深夜>
過去
<早朝>
 

また、亜希子さんは主に過去に登場する人物であるが、彼女がわずかに2度だけ登場する現在のシーンは結果的にとても重要な役割を担っていた。夏目先生の電話口に濱田マリさんの特徴的な声のみで登場する序盤のシーンは、直前の二つのシーンが「同じ時間」であることを観客に印象付けるには十分すぎるものだ。ほぼこのワンシーンで我々がこの映画に向き合う姿勢は決まってしまったと言ってもよいだろう。そして彼女が現在において2度目に登場する時とは、二つの時系列の存在がすでに明らかになっているラスト近くであり、亜希子さんの容姿の変貌と裕一(夏目先生)との関係性の不変が描かれることによって、やや混乱していた我々の頭はここに至って初めてすっきりと整理され、再び過去に戻るラストシーンの余韻へと繋がっていくのである。

以上のようなこの物語の基本構造が明らかになるのは本編のラストから逆算して30分ほどの時点からで、言うまでもなくここから物語の雰囲気は一変する。すでに述べたようにこのシーンは感動の基点であり、我々がこの物語に向き合う姿勢をはっきりと転換させる強烈なサプライズが仕込まれているのである。主要な登場人物(忽那汐里と大泉洋)が決して同じ画面には映らないことが過去と現在の境界をはっきりと区別する唯一の要素だったわけだが、本編にはたった一度だけこの二人が同じ画面に映る瞬間がある。手術を受けられる病院へ転院することを決意した里香ともう二度とメスを握ることはないと心に決めている夏目先生が病院の廊下ですれ違う。この存在しえないシチュエーションから巧妙に仕組まれた「ネタばらし」が始まる。

 2013111701.jpg2013111702.jpg

同じ病院にいながら出会うことがなかった二人がついに言葉を交わすことによって物語が動き出す・・・自信を喪失していた一人の医師が、生きることに希望を見出した患者の命を救うに違いないという漠然とした結末を想定してこの物語に向き合ってきた我々は、二人が同じ画面に納まった瞬間にある種の予定調和を夢想するのである。しかし、夏目が踵を返して里香の背中に声をかけると、そこには見たことのない少女の顔が現れる。誰だかわからない少女に手術できないことを改めて説明する夏目の姿は予定調和を崩壊させ、我々を混乱に陥れる。別の時間を生きているはずの人物が同じ画面に映るといういわば時間の境界を打ち破ったこの数秒のカットがもたらす効果は絶大で、これは我々の行き過ぎた想像をゼロに戻すような性質を持ったサプライズ演出と言える。観客はこれ以降この物語が向かう結末を再構築する作業を強いられるのだ。二つの時系列の存在とその境界をはっきりと認識した我々は、これ以降の30分間で、これが青春時代の淡い恋を描いた物語ではなく、難病に冒されながらも病気と闘うことを決意した少女と彼女の命を救うためにすべてを捧げようとした男の人生を描いた、まさに「純愛物語」だったという事実を思い知ることになるだろう。ちなみに深川栄洋監督は『洋菓子店コアンドル』という作品の中でも一つのシーンで二つの時間を描くという高度な演出テクニックを採用したことがある。

さて、これまでも複数のレビューで言及してきたことなので、当ブログのレビューをずっと読んでくださっている方には耳タコかもしれないが、私はラブストーリーの成否は「二人の距離感」をどのように表現するかにかかっていると考えている。これはその大部分が演出の領域に存在する要素と言ってもよく、監督の手腕が端的に現れるのがこの部分だと考えている。私は本編中好きなシーンを挙げろと言われれば、迷わず序盤と中盤に登場する二つの屋上のシーンと答える。それはこの一連のシーンには、「二人の距離感」が巧みに織り込まれているからである。

亜希子さんからある入院患者と友達になることを命令された裕一(池松壮亮)は、翌日グローブをもって屋上へとやってくる。しかし、そこにいたのは本を手に静かに佇む少女の姿だった。てっきり相手は男の子だと思っていた裕一は戸惑いつつ、屋上に干してある純白のシーツ越しに彼女の様子を窺う。

 2013111703.jpg2013111704.jpg

初めて目が合った二人の間にたなびく純白のシーツによって、初めて出会った二人の間に当然存在する壁(=距離感)を表現しようとしているのは間違いないだろう。さらに深川監督は二人の距離が縮まった中盤のシーンでもう一度同じシチュエーションを作り出す。スクーターにタンデムして砲台山へ向かうシーンで二人の間の物理的距離はゼロになるわけだが、この時の出来事が逆に二人の間に精神的な距離を生むことになる。砲台山の山頂で里香の死への覚悟を聞いてしまった裕一は、里香の存在をとても遠くに感じるようになるのだ。裕一は遠くに行ってしまいそうな里香に置いていかれまいと、里香がつぶやいた「銀河鉄道の夜」のカムパネルラの台詞に、覚えたばかりのジョバンニの台詞で必死に応えようとする。カメラは裕一の視点で洗濯物越しに見える里香の姿を追いかける。

 2013111705.jpg2013111706.jpg

 「おっかさんは僕を許してくれるだろうか? 僕はおっかさんが本当に幸せになるなら、どんなことでもする。けれどいったい、
どんなことがおっかさんの一番の幸せなんだろう」

「君のおっかさんは何も不幸せではないじゃないの」
「僕はわからない。けれど誰だって本当にいいことをしたら一番幸せなんだ。そうしたらおっかさんも僕を許してくださると思う」
「カムパネルラは何か本当に決意しているように見えました」

里香がカムパネルラの台詞に自らの境遇を重ねていることを感じ取った裕一の心に、砲台山で目にした里香の悲しみに満ちた表情がよぎる。この直後、その時の里香の表情を一瞬だけインサートするのはセオリーである。これは裕一がそんな里香を元気づけようと友人の協力を得て文化祭へと連れ出すシーンへと繋がっていく。

 2013111707.jpg

純白のシーツを使った二人の距離感の演出はこれで終わらない。文化祭での出来事に責任を感じた裕一は里香と距離を置くようになるが、逆にあの出来事で裕一の存在の大きさに気がついた里香は、上弦の月が輝く夜にある決意を秘めて裕一の病室へとやってくる。寒いと言いながら裕一のベッドに潜り込んだ里香は、裕一に対する思いと彼女の決意を語り始める。

 「私手術することに決めたよ。でも、もう一人は嫌なの。
 裕一も一緒に戦ってくれるよね?裕一も私と一緒に生きていたいもんね?
 生きるために手術して欲しいって、死ぬことなんか考えちゃダメだって言ってくれるよね?
 だから私、一瞬でも長く生きるチャンスがあるなら、命懸けて頑張るね。 
 裕一と会って変わったんだよ、私。見ててねずっと。そしたら頑張れるから・・・」

 2013111708.jpg「疲れた・・・こういうの言うのって疲れるね・・・」

名シーンである。このシーンでは、前の二つのシーンで二人の間にある距離感の象徴として存在していたシーツが、二人をやさしく包み込んで二人の距離を物理的にも精神的にも最小にする真逆のアイテムに変化しており、この役割の転換はなんとも心憎い演出である。私は、紹介した二つのシーンにおける純白のシーツを使った距離感の演出は、このシーンから逆算して創造されたのではないかと考えるようになっている。このような作り手の計算をつぶさに感じ取ろうとする作業こそが映画を鑑賞するにあたってのひとつの醍醐味ではないだろうか。深川栄洋監督の作品は常に我々の想像力や感性を試すかのような緻密な計算をめぐらせている。だからこそ私は深川作品を愛するのである。

深川栄洋監督は脚本を兼任した八千草薫さん主演の『くじけないで』(松竹)が公開中で、さらに来年にはシリーズ化が実現した『神様のカルテ2』(東宝)が公開予定という引く手数多の才気溢れる若手映画監督である。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★
 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★☆
 音楽 ★★★★☆

yahoo_logo.png『半分の月がのぼる空』忽那汐里、大泉洋 単独インタビュー
http://movies.yahoo.co.jp/interview/201003/interview_20100330001.html
youtube_icon.jpg映画『半分の月がのぼる空』舞台挨拶
https://www.youtube.com/watch?v=AG5v3aqxc1Q

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