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岳-ガク- [映画レビュー]

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(C)2011 「岳-ガク-」製作委員会 (C)2005 石塚真一/小学館

『 岳-ガク- 』
( 2011年 東宝 125分 )
監督:片山修 脚本:吉田智子 主演:小栗旬、長澤まさみ
          Official Wikipedia / Kinejun          

(P)岳-ガク-

いかにもテレビのディレクターが撮った映画という感じの作品です。不特定多数の視聴者を想定しているテレビドラマがもっとも注力しなければならないことは「わかりやすさ」ですが、映画というものは必ずしも「わかりやすさ」が求められるメディアではないと思います。映画とテレビドラマの差はそれだけではありません。TBSの土井裕泰監督が手がけた『ハナミズキ』(2010年 東宝)のレビューでも触れましたが、映画は大きなスクリーンで観るものですから、大画面の情報量を生かすような絵作りがなされるべきです。また、観客がテレビよりも能動的に画面に対峙しているということも忘れてはなりません。

冒頭で遭難する青年(尾上寛之)は、本作のテーマ表現において最も重要な役割を果たすことになる存在ですが、そのあたりのことは後ほど触れることにして、この冒頭部分の演出はいかにもテレビ的な手法で成立していることを指摘しておかなければなりません。このシーンでは彼が遭難する原因、すなわち雪氷を歩行中にアイゼン(靴底に装着する滑り止めの金具)を脱いでしまうという愚行が描写されているわけですが、そのことを強調(=わかりやすく)するために、脱いだアイゼンを写した物寄りのカットがインサートされており、私はここに早くもテレビっぽい演出を垣間見た気がしました。さらに、このとき背負ったアイゼンがクレバスに落ちた際に氷壁に引っかかって彼は命拾いをすることになるので、あのカットはその後のシーンで彼の運命を左右する要素を強調して(=わかりやすくして)いたとも言えます。

私は本作が映画という媒体である以上、彼のバックショットを広い絵で捉えるだけでも脱いだアイゼンを背負ったことを観客に伝えることは十分に可能だったと思っています。なぜなら観客がその映像からあらゆる情報を得ようとスクリーンに積極的に向き合っているのが映画だからです。また、仮に観客に彼がアイゼンを背負っていることが伝わらなくても何ら問題はないし、その後のシーンで感動を生み出すためには、むしろその方が効果的だったのではないかとすら思うようになっています。ひとつ想像していただきたいのですが、あのカットが存在しない場合に、青年が遭難するまでの一連の描写から我々は何を感じたでしょうか。

青年が遭難した理由がアイゼンならば、命拾いした理由もアイゼンだったところがこのシーンの肝なわけです。ここから得られる感動は、あの物寄りのカットが存在しない場合の方がより大きかったはずだと私は考えています。あのカットを観ることによって彼がアイゼンを背負っていることをはっきりと知っている人間の感動は、彼が助かったという感動の中に脱いだアイゼンを背負っていて本当に良かったという確認的な意味合いが含まれてしまいます。それに対して、彼がアイゼンを背負っていることを認識していない人間は、彼が助かったということに加えて、彼が助かった原因が脱いだアイゼンだったことを知った二重の感動を得られるはずです。アイゼンへの物寄りのカットはここに至って初めてインサートされるべきものでした。

さらに終盤、山岳救助隊員の椎名久美(長澤まさみ)が重大な決断をするシーンでも、彼女がその決断に至る過程を補完(=わかりやすく)するためと思われるカットがインサートされていました。椎名久美が山岳救助隊員を志望した理由は、序盤はどちらかといえば消極的なものとして描かれていましたが、中盤以降、山岳救助隊長だった父親・椎名恭二(石黒賢)の存在が明らかになると、彼女のキャラクターは一気に深みを増してきます。久美は終盤のこのシーンで、遭難した父娘を救助するためにヘリコプターから山に降下しますが、娘の梶陽子(中越典子)を救助したところで天候がさらに悪化し、父・梶一郎(光石研)を残して撤退を余儀なくされます。このとき久美は、機上で陽子が必死に叫ぶ「お父さ~ん!」という言葉に自分の父親を重ね、自分の父親がその最期に為したことを思い出したからこそ、ザイルを切って再び降下するという決断に至ったわけです。

このあたりの久美の心情と思考の流れというものは、ここまでの物語を丁寧に観てきて、久美の亡き父親に対する想いをしっかりと解釈できている人には十分すぎるほど理解できるものだと思います。しかし、本編ではこのときの久実の心情を補完するために亡き父親の遺影をインサートするという、私に言わせれば「くどい演出」を施してしまっています。実はこの直前に陽子が叫ぶ最後の「お父さ~ん!」を周囲の音をオフにすることによってはっきりと際立たせる素晴らしい演出が為されていて、それだけで久美の心に自分の父親がよぎったことが巧みに表現されているのです。それにもかかわらず、父親の遺影という「久美の心の中そのもの」を直接見せてしまうというのは、はっきり申し上げて余計なことだし、つまらない演出だと思います。私は陽子の必死の叫びを聞いている久美の心情というものは、あくまでも我々が想像するものでなければならなかったと思っています。

「わかりやすさ」が時に観客から感動を奪ってしまうのはよくあることで、映画監督はこのあたりのバランスによく注意を払わなければならないと思います。冒頭のシーンではあのカットのおかげで、青年が助かった理由はわかりすぎるほどのものとなりましたが、その分感動は半減してしまったわけです。同じ感動でも作り手から押し付けられた感動と観客が能動的に感じ取ろうとして得た感動では、その性質が大きく異なります。どちらの感動の方がより深く観客の心に刻まれることになるのかは言うまでもないと思います。久美の決断に至る心情は、そのものを直接見せられてしまうことによって、むしろその印象を薄くしてしまっているのは間違いないと思います。映画監督の仕事とは、感動の本質をわかりやすく説明することではなく、観客が能動的にその感動にたどり着くための道筋を仕掛けていくことだと思います。テレビのディレクターが映画に進出するようになって久しいですが、映画監督になった以上、はっきりとテレビから映画に頭を切り替えてその演出に臨んで欲しいと思います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

以上のことは本作の演出面についてのレビューであって、そのことをもって本作が駄作だと思われてしまうのは私の本意ではありません。本作が描いたテーマは私の想像を超える素晴らしいものだったと思っています。私は学生時代にエドワード・ウィンパーの『アルプス登攀記』というノンフィクションを読んで以来、「山岳小説」というジャンルをたくさん読むようになり、地上にいながらも、山に魅せられて山に登り続ける人たちの価値観というものを少しは理解しているつもりでいました。しかし、本作で描かれた山に魅せられた人の価値観、すなわち主人公・島崎三歩(小栗旬)が山岳救助ボランティアという仕事のバックボーンとしている価値観というものは、私がこれまで読んだどの小説でも描かれていなかったもののように思います。

この映画の原作漫画のタイトルには「みんなの山」という副題が付いているようです。私は本作を見る前は、この副題が意味するところがいまひとつピンとこなかったのですが、「みんなの山」とは、島崎三歩が本編中一貫して体現しようとしてきた「主義」のようなものを端的に示した言葉だったということに観終わってから気が付きました。

島崎三歩が山を愛する理由とは何でしょうか。自分の生身の体ひとつで山頂に登りつめる達成感、山の頂から見える景色とそこにある空気、そしてそこで飲むコーヒーの味・・・もちろん彼が最初に登場するシーンで描かれたものが、彼が山に魅せられた理由の中でも大前提となるものでしょう。しかし、三歩が山岳救助ボランティアという仕事に彼自身が命をかけて取り組んでいる理由はそれだけで説明がつくものではありません。三歩の山に対するあらゆるモチベーションは、自分が愛する山が自分だけではなくて多くの人によって愛されることで初めて成立するものなのだと思います。つまり、山の魅力を「みんな」と共有していることにこそ意味があるのです。

まず、序盤に三歩が力及ばず救えなかった横井修治(宇梶剛士)の息子・ナオタ(小林海人)を勇気付けるための三歩のやり方ほど彼らしい行動はなかったと思います。父親と食べることができなかった「男飯」をいつかあの山で食べよう、それができたとき父親の死をただの悲しみから生きる勇気に変えることができるのだから、山を嫌いになってはいけない・・・それを伝えるために三歩は山を下りて、ナオタに会いに行ったのです。そして三歩はナオタが山に登れるようになるその日まで彼に寄り添う決意をします。また、クライミング中に落石によって命を落とした学生をフォール(遺体を山下に落とすこと)せざるをえなかった三歩が、学生の父親からその行為を責められたときには、土下座までしてその責を一身に受けようとします。このときの三歩の心情には、山を好きだった息子さんを責めないで欲しいという想いがあったのではないでしょうか。三歩にとっては、山を愛して、山で命を落とした人間が責められることが何より辛いことだったはずです。

 「久美ちゃんは、生きよう」

そして、新人山岳救助隊員・椎名久美が人知れず抱え続けてきた過去に接したとき、三歩が笑顔で久美にかけた言葉もまたとても彼らしいものだったと思います。これは久美がこれまで背負ってきた過去とその過去からこれからも目を背けることはできない彼女の人生を究極的に単純化した言葉だと思います。この言葉によって久美の生き方はどれほど楽になったでしょうか。山に捨ててはならないものは、命です。単純明快ではありますが、本編でも複数のエピソードで描かれているとおり、それでも時として一番大事なものを奪ってしまうのが山なのです。山を愛し、山に向き合い続けるということはおそらく簡単なことではないと思います。島崎三歩は、彼自身が山で親友(波岡一喜)を失うという経験をしており、それでもなお笑顔を絶やすことなく山にいるというところが、彼が山で為していることに深い説得力をもたらしています。

 「また、山においでよ。」
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これは三歩の台詞で、本作のキャッチコピーのひとつにもなっているものですが、私はポスター等に使用されている「生きる。」よりもこちらの方がずっと好きです。本作のクライマックスシーンを振り返ると、まさに「生きる。」がぴったりのストーリーなのかもしれませんが、島崎三歩という存在そのものが本作のテーマだとすれば、「また、山においでよ。」は、島崎三歩の意志を的確に表現し、彼の存在そのものを象徴している言葉だと思います。そして、三歩が山を訪れたすべての人に伝え続けているこの言葉に対する返答がこれです。

 「また、来ちゃいました・・・」

冒頭で遭難した青年と山で再会したときの喜びは、三歩にとっては山頂で味わうコーヒーと同等の感動があったはずです。自分が愛する山を彼が嫌いにならないでいてくれたことに三歩はどれほど感激したことでしょうか。彼が山を下りない理由、山の魅力を伝え続ける理由は、冒頭のシーンとこのラストシーンがつながることによって見事に表現されていたと言えます。そして、本編中もっとも魅力的な島崎三歩の笑顔を我々はここで見ることになるのです。

プレビューに書いたとおり、この島崎三歩という役柄が小栗旬くんにぴったりのキャラクターだったことを本作をご覧になられたほとんどの方に同意していただけると思います。ただし、私の彼を見る目は厳しいので、同時に彼ならもっとできたはずだという思いもあります。本作のような役柄からは随分遠ざかっていたので、無理からぬことかもしれませんが、今後の小栗旬はこの方面のお芝居をもっともっと磨いていくべきだと思います。私は小栗旬くんにはもっと早い段階で、本作のような役柄を与えるべきだったと思っていて、近年の民放ドラマプロデューサーのキャスティング力や俳優の魅力を引き出す能力の低さにはほとほと呆れています。白い歯を見せて笑う、それだけのことで彼の魅力は倍増するのに、それを完全に封印したプロデューサーがいたことには彼のファンではなくても憤りを覚えます。ちょっと遠回りをしたかもしれませんが、本作で新しい魅力を開花させた小栗旬に今後も注目していきたいと思います。

関連記事 : (P)岳-ガク- (2011-05-07)

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★★★
 配役 ★★★☆☆(決してはまり役ではなかったが、長澤まさみちゃんには「よく頑張った」と言ってあげたい。)
 演出 ★★★☆☆(ラストのコブクロさんによる主題歌の導入部分は本当に素晴らしかった。)
 映像 ★★★★(北アルプスの空撮は映画作品で見る映像としては目新しさと美しさを伴っていたと思う。)
 音楽 ★★★☆☆


タグ:長澤まさみ
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(5)鈴木先生 [ドラマレビュー]

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『 鈴木先生 』
第5回
( 2011年 テレビ東京=アスミック・エース 公式サイト
監督:河合勇人 脚本:古沢良太 出演:長谷川博己、臼田あさ美、土屋太鳳、田畑智子、富田靖子、でんでん

自分らしく生きることが困難ならば、自分を殺して生きることもまた易しくはない。 

自分の在り方や身の置き場所に苦悩するということは、人間が社会生活を営むにあたって避けられないものだと思います。やはり小川蘇美(土屋太鳳)がそのクールな表情の裏に隠していた苦悩とは、とても奥が深く、人間社会の真理とでも言うべき内容でした。彼女は、自分らしくいることによって周囲(自分以外の人間)に「すかしている」「バカにしている」と思われてしまう自身の在り方に悩み、クラスメート(自分以外の人間)のいいところを取り入れて、自分らしさを改造しようとしました。彼女はそれを「自分がいいと思う自分」と表現しましたが、自分以外の他者の目が介在している時点で、すでに「自分らしさ」はほとんど失われてしまっていると言っていいでしょう。

今回のエピソードは、自己主張しても自己封殺しても、結局は誰かしらの妬みを買ってしまう人間社会の愚かしさと不条理を捉えていると思います。小川蘇美は、今回の事件を経験したことによって、窮屈な人間社会を生きていくための「処世術」を手に入れました。彼女が選んだ生き方とは、「仮面」をかぶって生きていくことです。いや、これはほとんどの人間が遅かれ早かれたどり着く、というよりも選ぶことを強いられる結論なんだと思います。ありのままの自分を出して社会生活を営んでいる人間がこの世の中にどれだけいるでしょうか。ほとんどの人は自分ではない自分を演じることによって、自分の社会的ポジションを確保し、周囲との折り合いをつけているのです。

好きな人を告白することを強いられた小川蘇美が取り乱してしまったのは、ただでさえ自分らしさに折り合いをつけた窮屈な生き方をしているのに、誰にも侵されるはずがないと思っていた「心の自由」まで脅かされそうになったからだと思います。

 「誰が好きだっていいじゃないか!」

人間同士が向き合うとき、絶対に侵してはならない領域というものがあって、それがその人にとって「自分らしさ」というものをわずかでも保持できる拠り所かもしれません。「仮面」をかぶって社会生活を営んでいるのが人間である以上、その外見のみで人となりを判断することは避けなければなりませんが、だからと言ってその懐にずけずけと立ち入ることも憚らなければなりません。それが人間社会の暗黙のルールというものだと思います。

いささか哲学的な命題と化してしまっていますが、これらは人間社会が普遍的に抱えているの真理だと思います。小川蘇美は、自分らしさを隠すための仮面をかぶった自分もまた自分であると考えることによって、ありのままの自分ではなくなってしまった自分をも好きになろうとしているのです。そして、今度のことでそれが社会を生きていく術だということを思い知りました。彼女が確信を持ってひとつの結論に到達できた背景に鈴木先生(長谷川博己)の存在は欠かせないものだったでしょう。彼女は鈴木先生もまた「生徒から憧れられる先生」を演じているということに気がついており、だからこそ自分も「大人から見ていいなって思える中学生」を演じていかなければならないという結論に辿り着いたのだと思います。自分と共通した命題に立ち向かっている鈴木先生が、変わろうとしている自分をちゃんと見守ってくれていることに彼女はどれだけ勇気付けられたでしょうか。

というわけで、結局判然としなかった小川蘇美が「好きな人」とは、鈴木先生のことで間違いないと私は考えています。ただし、その実は恋愛感情というよりも、「尊敬」という言葉の方がより適切なのはなんとなくお分かりいただけると思います。これまで描写された彼女の大人びた言動を振り返ると、同年代の男子を好きになることはまずありえないし、彼女が誰かのことを好きになるときは直感的な惚れた腫れたよりも、その人の本質を見極めた上での「尊敬」に近い感情から始まるのは至極当然のことだろうと思います。

一方で、鈴木先生も今回の事件を通じて小川蘇美に対する感情にひとつのけじめをつけることに成功しました。前回の「竹地事件」以来、鈴木先生がこだわっていたものとは、小川蘇美が好きな人は誰なのかということで、これは小川ファン5人衆や樺山あきら(三浦透子)など生徒たちの関心と何ら変わらないものでした。そのあたりの鈴木先生の心情に拍車をかけたのが、補充された体育教師・続木先生(夕輝壽太)の存在で、ついには夢や妄想を超えて鈴木先生の実行動をも狂わせてしまいました。

 「鈴木先生、しっかりしてください!そんなところを人前で見せてはいけない!」

鈴木先生の狂った理性を最終的に修正したものとは、小川蘇美の苦悩そのものだったわけです。鈴木先生は、彼女の正直な心情の吐露と決意表明に接して、自分がこだわっていたものがいかに小さなことだったのかを思い知ります。

 「誰が好きだっていいじゃないか・・・」

このあたりの鈴木先生の心情描写は、ストーリー上大変重要なものですが、目に見えない抽象的なものを含むだけにモノローグだけではフォローできない部分もあり、演出的には少し工夫が必要だったと思います。本編では鈴木先生の想像上の描写で小川蘇美に「バイバイ」と言わせているほか、窓の向こうに飛び立っていく白い鳩のイメージカットによって、小川に対する特殊な感情との決別を巧みに表現していました。さらに、これまでも多くのシーンで使用されてきたROBOTらしい活字を用いた演出が大変効果的でした。この画面からはみ出してしまうほどの活字が持つ力は、大変なものだと感心しています。

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さて、今週は鈴木先生の夢や妄想と暴走気味の行動に、続木先生とのからみやトイレでのモノローグとこれまでになく笑いの要素が満載でした。冒頭は『男はつらいよ』のオープニングを髣髴とさせる明らかに夢とわかるシーンでいきなり笑わせてもらったし、小川との駆け落ちを妄想するシーンで使用された舞台装置のようなセットなどにも強いこだわりが感じられました。それらの笑いに徹した演出と、鈴木先生と小川蘇美が会話する保健室のシーンに代表されるシリアスな演出のギャップはこのドラマの大きな魅力だと思います。

そして、長谷川博己さんの実力がここまでのものとは思ってもみなかったことで、今週回を観て改めて感心しています。言うまでもないと思いますが、この鈴木先生というキャラクターは、演出同様、硬軟両面の要素を求められるとても難しい役柄だと思います。昨年放送された『セカンドバージン』(NHK)の印象しかないので、彼がコメディ的要素をどう演じてくれるのかは未知数でしたが、第1話からすでに何の違和感もなく鈴木先生になりきっていたのはご覧になられたとおりだし、それどころか回を追うごとに鈴木先生の裏の側面を彼の中でうまく育て上げてきており、そのお芝居からは目が離せないといったところです。特にモノローグで成立している鈴木先生の複雑な思考と感情の表現は、台詞の抑揚や声のトーン、微妙な強弱などを巧みに用いて表現されており、あまりにも自然すぎて目立たないところかもしれませんが、改めて注目していただきたいと思います。

関連記事 : (10)鈴木先生 (2011-06-30)
(9)鈴木先生 (2011-06-24)
(8)鈴木先生 (2011-06-19)
(7)鈴木先生 (2011-06-10)
(6)鈴木先生 (2011-06-05)
(4)鈴木先生 (2011-05-19)
(3)鈴木先生 (2011-05-13)
(2)鈴木先生 (2011-05-06)
(1)鈴木先生 (2011-04-29)

< 付記 >
第5話が再放送されます。
5月28日(土) 12:58 ~ 14:23 (テレビ東京のみ)

<参考 : 緋桜山中2年A組 人物関係図>
http://www.tv-tokyo.co.jp/suzukisensei/special/book/book_img03.html 

<参考 : ネット局>
 ・ テレビ東京(関東広域圏)
 ・ テレビ北海道(北海道)
 ・ テレビ愛知(愛知県)
 ・ テレビ大阪(大阪府)
 ・ テレビせとうち(岡山県、香川県)
 ・ TVQ九州放送(福岡県)
 ・ 岐阜放送(岐阜県)
以上が同時ネット。以下は放送日時が異なる。
 ・ テレビ和歌山(和歌山県)※13日遅れ
 ・ テレビ熊本(熊本県)※15日遅れ
 ・ 新潟テレビ21(新潟県)※40日遅れ
http://www.tv-tokyo.co.jp/suzukisensei/onair/index.html


タグ:鈴木先生
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Twitter 20110525 [Twitter]

  • e97h0017e97h0017大河ドラマ『樅ノ木は残った』(1970年)デジタルリマスター版。史実を題材とし、独自解釈と良質な脚色で魅せた重厚な物語。史実という制約の中に観る者を惹きつけるドラマを織り込むことは十分に可能なのである。史実を徹底的に取材しようとしない無智蒙昧な脚本家に大河ドラマを書く資格はない。05/24 23:36

タグ:大河ドラマ

Twitter 20110522 [Twitter]

  • e97h0017e97h0017瀧本智行監督『星守る犬』試写会。主人公の生活は小泉政権下で歯車が狂いだし、鳩山政権下で破綻する。これを新聞紙のインサートのみで表現しており、地味に強烈な社会風刺が含まれている。これはいわゆる動物モノではなく、ポスターやチラシの情報のみで鑑賞すると、まず裏切られることになるだろう。05/21 20:41
  • e97h0017e97h0017テレビ東京『田勢康弘の週刊ニュース新書』。大江麻理子アナウンサーの番組進行に感心しています。決して台本どおりには進行できていないのだけれど、識者を呼んでお話を聞く場合、段取りのために話の腰を折ることほど興醒めなことはありません。段取りに必死なアナウンサーは本当に見苦しいものです。05/21 14:18

(4)鈴木先生 [ドラマレビュー]

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『 鈴木先生 』
第4回
( 2011年 テレビ東京=アスミック・エース 公式サイト
監督:橋本光二郎 脚本:古沢良太 出演:長谷川博己、臼田あさ美、土屋太鳳、田畑智子、富田靖子、でんでん

他者を想う気持ちが自分の行動を支配する。そしてそれが結果的に別の他者を傷つけることがある。

これはあらゆる社会に日常的に存在する「真理」とでも言うべき事柄だと思います。もっとも小川蘇美(土屋太鳳)に好意を抱く竹地公彦(藤原薫)は、小川自身をも傷つけるという救いようがないとも思えるほどの暴走をしてしまったわけですが、今回描かれた事件とは、「子供のけんか」で片付けられるほど単純な構造ではないのは明らかでしょう。

今回の竹地の行動はほぼすべておいて、そのベースに小川蘇美を想う気持ちが介在しています。トイレの個室に長時間こもっていたことを口止めしたのは、そのことを小川に知られたくなかったからだし、友人の紺野徹平(齋藤隆成)の恥ずかしいネタを暴露したのも小川の気を引くためであり、客観的には危うさをはらんでいますが、当の本人はそのことによって紺野どころか小川をも傷つけることになろうとは想像だにしておらず、何かに支配されたかのような行動でした。

この事件においてその行動を何かに支配されていたのは竹地だけでしょうか。小川ファン5人衆の他の4人は、竹地の行動のベースに存在する感情を嗅ぎ取り、小川蘇美を想うがゆえに竹地に対して圧力をかけています。また、中村加奈(未来穂香)が竹地に対して意趣返し的な発言をしたのも、長靴を履いてきた小川蘇美の心情を慮ってのことであり、すべての当事者に共通しているのが誰かを想うがゆえに他者を傷つけたということなのです。小川蘇美も例外ではありません。彼女が竹地をあざ笑ったように見えたあの微笑みは、おそらく中村が自分をかばってくれていることを感じ取った嬉しさから出たものであり、それが結果的に竹地を傷つけ、中村を押し倒す引き金となってしまいました。竹地が不運だったのは、中村加奈に外傷を負わせてしまった点で、彼はこれによってどつぼにはまってしまいます。

もちろんドラマですから誇張はされていますが、こういうことは人間社会にあっては日常的によくあることなのではないでしょうか。ある一面からは良かれと思って行動したことが、まったく別の面には悪影響を及ぼし、意図せず誰かを傷つけている、ということが我々の周囲に絶対にないと言い切れるでしょうか。本編では生徒たちそれぞれが子供らしくはっきりと行動を起こし、結果的に互いを傷つけあうこととなりました。しかし、大人社会の厄介なところは、大人ゆえに我慢するということなのです。知らないところで自分の行動が誰かを傷つけているかもしれないという意識は、大人だからこそ常に持たなければならないものだと思います。自分の行動の結果を見届ける、それが社会人の責任というものだと思います。

つまり、今回の事件は大人社会でもそのまま起こりうるような性質のものであり、学校で起こる問題とは社会の縮図と言えるのかもしれません。学校生活の中で今回のような事件を経験しておくことはとても重要なことだと思います。もちろん先生がこれをどう解決に導くかは、生徒のその後の人生に大きな影響を及ぼしかねないものかもしれませんが、足子先生(富田靖子)が言うような波風の立たないクラス運営が必ずしも正しいとは言えないと思います。

ここからは少し余談ですが、第2話で描かれた出水正(北村匠海)の問題行動の原因、すなわち食事作法に関わるエピソードは、やはり大人が自らのあり方を顧みるきっかけとしなければならない内容だったということを実感しています。

http://www.j-cast.com/2011/05/18095908.html?p=all

大人になる前に解決できなかった自らの心や自らの行動に関わる諸課題は、大人になって価値観が成熟してしまうとますます無自覚になってしまうし、一見瑣末なことだけに大人同士ではなかなか指摘しあえない、とてもやっかいな課題と化してしまいます。彼女を貶めるつもりはありませんが、自分が恥を掻くだけなら、無自覚なわけだし、何の問題もないのかもしれません。しかし、他者を不快にさせる、その結果として女優としての価値まで落としてしまうということになると看過できない問題となってきます。彼女が『花のあと』(2010年 東映)で武家の女性の所作を演じていたのかと思うと、これは観客に対する背信行為ともなりかねません。 

鈴木先生(長谷川博己)が竹地公彦に対して施した処置は、やり過ぎという意見もあるでしょう。しかし、竹地があの性格を矯正しないまま大人になってしまうことを想像すると、こんなに不幸なことはありません。鈴木先生が言うところの「生徒ひとりひとりの覚醒」とは、大人になる前に為されなければ意味がないのです。荒療治ではあったかもしれませんが、遅かれ早かれ、竹地が大きな問題を引き起こすのは目に見えているし、それがクラスの問題として顕在化せず、鈴木先生の目に触れずにうやむやになっていたら、竹地の性格はそのままどころか、ますます方向性を違えていた可能性もあったと思います。

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「見た目より快活で博識、雄弁。その反面、自尊心が強く、人を見下す傾向あり・・・」

私は、今回の鈴木先生の判断は、当然彼の中に「勝算」があってのことだったと思っています。それを感じさせる描写のひとつが、序盤に鈴木先生のモノローグで説明された竹地の性格分析の的確さです。これは竹地の「孤独な戦い」が終わって、談話室で鈴木先生が竹地に与えた今後の「処方箋」によく現れていて、鈴木先生のアドバイスは、竹地の性格を熟知し、逆手に取ったものだったと思います。

 「止めないことが、救い」

鈴木先生は、今回のことをクラスメート(他者)との間に起こった問題ではなく、自分自身の問題であることを「止めないこと」によって竹地に認識させており、問題の本質を簡潔化させることに成功しているのです。このシーンで鈴木先生が竹地に投げかけたアドバイスは、自分の感情を暴走させてしまった竹地だからこそ理解できるものなのです。そして、竹地の性格はもちろん、理解力に関わる彼の学力なども考慮に入れ、ある程度の確信の上に一つ一つの言葉を選び、精巧に作り上げられたアドバイスだったと思います。

鈴木先生の勝算のベースにあるもうひとつの要素は、中村加奈の「覚醒」をはっきりと認識したことです。今回描かれた中村加奈の精神的成長は、出水正の問題行動で露呈した、自らの行為(=食事作法)が他者に及ぼす影響に対してしっかりと向き合えた結果であり、鈴木先生は自分のやり方が間違いではなかったことを確認し、自信を深めたはずです。今回の竹地に対する処置がどう転ぶか、「そんなこと、わかるわけがない」のは、結局、「覚醒」とは自分自身で成し遂げなけらばならないものだからです。鈴木先生は自分の「勘」にはそれなりの自信を持っていて、少なくとも竹地が「覚醒」に至る道筋はしっかりとつけたという確信を持っているはずです。今回も鈴木先生の教師としての非凡な能力が巧みに描かれていたと思います。

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「小川ファン5人衆」

それにしても改めて優秀な脚本だと思います。中村加奈の「覚醒」の描写は第2話に始まるものだし、小川ファン5人衆の存在が前回のさりげないシーンの中ではっきりとあぶりだされていたというのもとても面白いものでした。各話単体でも十分に楽しめるドラマだと思いますが、第3話までの山崎先生(山口智充)の描写からもわかるように、一つ一つのシーンにしっかりと意味が込められていて、それらを丁寧に解釈しておくことでその後のエピソードを何倍にも楽しめるドラマだと思います。今回で言えば、小川蘇美と中村加奈の関係接近、それを好ましいものと思っていない樺山あきら(三浦透子)と入江沙季(松本花奈)、そして小川ファン5人衆の描写などが、今後巻き起こるエピソードに深く関係してくるでしょう。そういえば、『サイドカーに犬』(2007年)では小学生だった松本花奈ちゃんがすっかり大きくなっていて驚いています。

例によって今回もとても硬派なレビューになってしまいましたが、鈴木先生の妄想およびモノローグのシーンでは相変わらず笑わせてもらっています。そこに今回は、鈴木先生の恋人・秦麻美(臼田あさ美)が「生霊」と化すという新たな要素が加わっており、彼女に関係する描写は今のところは傍流的エピソードですが、今後大変重要な役割を果たしていくのは間違いないでしょう。見逃されがちですが、提供バックで使用されたシーンにも笑ってしまいました。さらに今回は、雨の演出が大変効果的だったことも付け加えておきます。今クールのドラマの中では最も低視聴率でありながら、演出・脚本ともに最もハイクオリティな作品に仕上がっているのがこのドラマです。

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(5)鈴木先生 (2011-05-26)
(3)鈴木先生 (2011-05-13)
(2)鈴木先生 (2011-05-06)
(1)鈴木先生 (2011-04-29)

<参考 : 緋桜山中2年A組 人物関係図>
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<参考 : ネット局>
 ・ テレビ東京(関東広域圏)
 ・ テレビ北海道(北海道)
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 ・ テレビ大阪(大阪府)
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 ・ 岐阜放送(岐阜県)
以上が同時ネット。以下は放送日時が異なる。
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