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太平洋の奇跡 (コメント欄より) [映画レビュー]

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『 太平洋の奇跡 』
( 2011年 東宝 128分 )
監督:平山秀幸 脚本:西岡琢也/Gregory Marquette・Cellin Gluck 主演:竹野内豊

          Official Wikipedia / KINENOTE          

太平洋の奇跡 (上)
太平洋の奇跡 (下)

『太平洋の奇跡』のレビューにたくさんのコメントを寄せていただきました。
私自身、皆様のコメントからたくさんのことを教えてもらいました。改めてお礼を言わせてください。ありがとうございました。

私は、この映画を観て「感動した」で終わらせてはならないとずっと思っていました。
感動の後には、この映画が訴えようとしているメッセージを汲み取り、
それを自らに課せられた問題として考え、現実に行動を起こせるような指針を持てれば最良だと思っています。
以下に転載させていただきましたこめっこさんのコメントの中にはその答えがあるような気がしています。
もちろん正解はひとつではないと思います。この映画を観た人それぞれが考えること、それが一番重要です。
こめっこさんの文章からヒントを頂戴して、私たちは何をしなければならないのか、皆様と一緒に考えていければと思います。

   


この映画の一番伝えたかったことはなんだろう・・・。「日本人としての誇り」?
もちろんそうなのだろうと思います。でも、本当にそこかな~?と思っている自分もいます。
ダイレクトに「誇り」がメッセージなら、もう少し別のエピソードや表現方法を選択したような気がしてならないのです。

気が付いた時には豊かな生活があり、バブル世代で何も考えなくても大人になれた私は、
「日本人の誇り」なんて考えたこともありませんでした。
これは、戦争を戦ってきた世代の方たちが「日本人としての誇り」もしくは「自信」を捨てさせられてしまい、
そして誇りを捨てさせられてしまった祖父・親そして社会に育てられた世代だからなのかとも思います。
戦後、自分たちが正しいと思ってきた価値観は崩れ、戦争の話題を避け、
生き残ったことを詫び、後悔し、生きてきた世代。もちろん、その世代の方たちのせいではありません。
あの世代の方々に「日本人としての誇り」があったからこその戦後復興、高度経済成長だと思いますし、
そもそも私のような人間がそれに気が付けなかっただけですし。
しかし、現在のわが子たちは、多くのお年寄りが学校にきて、昔の話や戦争の話をしてくださいますが、
我々が子供の時は、戦争に関する授業や誰かに話を聞く授業もなかったように思います。
今思えばまるで、戦争なんてなかったかのような扱いでした。

監督が「戦争を知らない世代だけで作った初めての作品だからこそ意味がある。」
と言われていたのを聞いたとき、その意味がよくわかりませんでした。
体験した人が入って作った方が意味あるにきまっているのではないかと思いました。
大場隊47名のうちのたった一人生存されている新倉さんが、
「家族がこの映画を見て、とうちゃんえらかったんだね~、とはじめて言ってくれた。」
と話されていました。65年経ってやっと認められたんですね。
「先人への敬意」「兵士たちへのレクイエム」・・・。これが、根底にあるのではないかという気がしたのです。
戦争を知らない世代だけで作ったからこそ、戦争を生きた方々への「弔いや感謝」になるのではないかと。
戦争を体験された多くのお年寄りが嗚咽されながら映画を見ていらっしゃると聞きます。
もしかすると、新倉さんと同じ思いを抱いているのかもしれないと思いました。
私たちが日本を誇りに思うためには、
戦争の世代を生きた方々が自分たちのことを誇りに思わないと始まらないのではないかと感じました。
きっと新倉さんは今、その家族の言葉によって
戦争の時代を生きた自分の人生を誇りに思ってくださっているのではないかと思いました。
この映画は戦争世代の方々には「捨てさせられた日本人としての誇り」を、
そして若い世代には「先人への敬意」を、
そしてそこから繋がる「日本人の魂」を伝えたかったのではないかと感じました。

私は、終戦記念日に手を合わせたこともなければ、
本音では法事や墓参りなんて時間の無駄だよねと思っていたり、
たとえ形だけ手を合わせても心の中ではペロッと舌を出していたり・・・。
だからそんな見方をしてしまったのかもしれません。
自分が無知すぎて、「誇り」を理解するレベルまで達していないというか・・。
私はあまりに薄情な日本人で、でも本当はそれを自覚し、
心から手を合わせる意味を教えてほしいと感じていました。
自分が納得できなければ、その思いを子供に伝えることはできません。
でもこの映画が自分の心を納得させてくれました。「しっかりしろ!」と言われた気がしました。

竹野内さんが舞台挨拶で「どうか尊ぶという気持ちを忘れないでほしい。」と話された言葉、
やっとその意味がわかった気がします。これからは、心から手を合わせお参りできる気がします。
そして、本当の「敬意と感謝」を感じた今こそ「日本人としての誇り」を目覚めさせる時だなと思いました。

by こめっこ さん (2011-03-04 17:17)

 

   


こめっこさん、丁寧なコメントありがとうございます。
こめっこさんが書かれたことは、この映画を観た人が辿り着くべき到達点にかなり近いような気がしています。
私が本文で書いたことはあくまでも映画レビューですので、その中で表現されたことについて書いています。
その先にある(なければならない)ものを書いてくれたのがこめっこさんだと思っています。
私はここに答えがあると思います。お許しいただけるなら、
本文に転載してもっと多くの人に読んでもらいたい文章です。
私自身たくさんことを気づかせてもらいました。感謝します。。。(涙)

by ジャニスカ (2011-03-04 18:58)

 

関連記事 : 太平洋の奇跡 (追記)(2011-08-22)
太平洋の奇跡 (下)(2011-03-01)
太平洋の奇跡 (上)(2011-02-27)
(P)太平洋の奇跡(2011-02-10)


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(7)大切なことはすべて君が教えてくれた [ドラマレビュー]

2011011801.jpg 

『 大切なことはすべて君が教えてくれた 』
第7回
( 2011年 フジテレビ 公式サイト
演出:関野宗紀 脚本:安達奈緒子 出演:戸田恵梨香、三浦春馬、武井咲

正直なところ本格的に、いや絶望的につまらなくなってきたな、というのが今回の感想です。
「3ヶ月前」といって突然「こんなことあったんですよぉ」と言われても困ります。(←冷ややかに、、、)
しかも、上村夏実(戸田恵梨香)のお見合い相手、
山下有悟(福士誠治)が抱える事情に我々はどんなリアクションをすればいいのでしょうか。
だから夏実が妊娠していると聞いて「運命を感じた」と言ってしまうのは、ぶっちゃけすぎだろう。
これには普通はドン引きだと思うんですけど、夏実ちゃんはわりと平気らしい・・・ホントどうしましょ、、、(^^;
このタイミングで夏実の前に別の男性が現れるのは、
あきらかに夏実は最終的に柏木修二(三浦春馬)と「くっつくフラグ」でしょう。
私は、序盤に佐伯ひかり(武井咲)の病気について明らかになって以降、
その病気のことを前面に出して描かないことを好感を持ってみていたのですが、
こういう形で「不妊」というキーワードを押し出してこられるとさすがに呆れてしまいます。
このドラマを観るモチベーションは今週をもってガクンと落ちました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

このドラマのストーリーについて語る余地も価値もないことを考えると、
演出面を掘り下げるしかないと思っていたんですけど、今週の演出担当者は関野宗紀さんということで、
これと言って特筆すべきシーンはありませんでしたので、私がこのドラマを観続ける唯一のモチベーション、
佐伯ひかりを演じている武井咲ちゃんについて私が感じていることを書きたいと思います。

私が武井咲という女優を初めて認識したのは、『櫻の園-さくらのその-』(2008年 松竹)という映画でした。
これはオスカープロモーションが社運をかけて映画事業に参入して、
興行的にはリアルに大失敗した映画なのですが、個人的にはとても好感を持っている作品です。
今作は漫画原作があって、1990年の映画『桜の園』(アルゴプロジェクト)のリメイクということになります。
でも、全然内容が変わっていて、プロットは同じでも描いてるテーマはまったく別物で、
リメイク版はいい意味でただの「青春映画」になっていました。

この映画で、福田沙紀ちゃん演じる主人公のかわいい後輩を演じていたのが武井咲ちゃんでした。
この役は1990年版では超重要な存在だったのですが、完全に「かわいい」ポジションに特化していました。
これは今思えば非常に意味深なキャスティングで、オスカープロモーションのアーティスト戦略が垣間見えます。

オスカープロモーションといえば「国民的美少女コンテスト」で有名ですが、
このオーディションが輩出したタレントは、一様に女優の道を歩んでいきます。
近年女優さんとしてもっとも成功したのが米倉涼子さんで、いつの間にか本格派女優の地位を確立していました。
私は『流れ星』(2010年 フジテレビ)をみて、「ポスト米倉涼子」が上戸彩ちゃんであることを確信したのですが、
おそらく事務所の戦略としては、それに続くのが福田沙紀ちゃんで、
さらに続くのが武井咲ちゃんなのではないかと想像しています。

これは、この映画のキャスティングによく表れていて、
特別出演として米倉涼子さん、上戸彩ちゃん、主演が福田沙紀ちゃん、かわいい後輩が武井咲ちゃんとなっており、
これはオスカープロモーションのアーティスト戦略の縮図とも言えるものではないでしょうか。
福田沙紀ちゃんはこの映画がぽしゃったこともあって、残念ながら急速に女優としての存在感を薄くして、
最近は歌手活動にも力を入れているようですが、彼女と入れ替わるように台頭してきたのが武井咲ちゃんだと思っています。
福田沙紀ちゃんが卒業(降板)したラジオ番組で、彼女の後を襲ったのが武井咲ちゃんだったのも象徴的でしょう。
米倉涼子さんも上戸彩ちゃんも本格的に女優業を始めるや、テレビドラマに出倒しましたけど、
年内のドラマ出演が主演も含めて決定している武井咲ちゃんは今まさに先輩と同じ道を歩んでいるということになります。

以上は客観的事実に基づく考察ですが、
主観的なことを言わせてもらえば私は武井咲ちゃんに心酔しているというのが正直なところであります(^^;。
あの『櫻の園-さくらのその-』の子が、こんなにしっかりとしたお芝居をするようになったのかぁ・・・という感慨は、
彼女に対する思い入れが強くなる理由としては十分ですよね?^^;
長年にわたってたくさんの映画やドラマを観ていると、こういうことはよくあって、
最後の忠臣蔵』(2010年 東宝)で取り上げた桜庭ななみちゃんなんかもそういう印象で見ています。
また、『ロボコン』の長澤まさみちゃんが『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年 東宝)で素晴らしい魅力を発揮したときも、
まったく同じ気持ちなって、この映画を繰り返し観ているうちに「他人じゃない」気がしてきたことがあります。

その長澤まさみちゃんと武井咲ちゃんが出演したロッテガーナチョコレートのCMは、
個人的には夢の競演だったんですけど、この二人が今週はラジオ番組でも共演する予定です。
興味がある方はぜひご聴取してみてください。正直かなりヌルイ内容ですが^^;、雰囲気を楽しめればいいかなと。

ニッポン放送 日曜22:00~ 『長澤まさみSweet Hertz』

今回はドラマについては書くことがありませんでしたので、こういう形をとりました。
今後も書くことがなければ、どうしようもありませんので、ここまで毎回書いてきたこのレビューもどうなるかわかりません。
書くとすれば演出なんだけどなぁ・・・でもこの内容だからなぁ・・・どうすればいいでしょうか、、、

関連記事 : (10)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-30)
(9)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-24)
(8)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-09)
(6)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-02-23)
(5)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-02-16)
(4)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-02-09)
(3)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-02-01)
(2)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-01-25)
(1)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-01-18)


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太平洋の奇跡 (下) [映画レビュー]

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『 太平洋の奇跡 』
( 2011年 東宝 128分 )
監督:平山秀幸 脚本:西岡琢也/Gregory Marquette・Cellin Gluck 主演:竹野内豊

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太平洋の奇跡 (上)

本作が当時の日本人を描くときに用いた基本的な表現方法にまずは言及しておきたいと思います。クリント・イーストウッド監督が「硫黄島の戦い」を2作品をもって描いたのは、戦争を切り取る視点が一方に偏らないようにする配慮によるものということになると思います。本作が日米双方の視点で描かれているのも、同様の意味合いがあるはずですが、本作の場合、実はアメリカ側の視点というものは、アメリカ軍がサイパンにおいていかに戦ったのかということよりも、アメリカ軍が日本軍や日本人というものをどのように捉えていたのかということを表現するために存在しています。すなわち本作におけるアメリカ側の視点とは、ほぼハーマン・ルイス大尉(ショーン・マクゴーウァン)の大場栄大尉(竹野内豊)に対する畏敬の念をもって成立しており、アメリカ軍のパートは、日本軍の行動論理および日本人の精神や価値観をわかりやすく説明する役割を担っているのです。

大場栄大尉を中心に描かれる日本パートは、彼自身が多くを語らないということもあるし、彼らの行動が当時存在していた当たり前の価値観に基づいているのだとすれば、それらを彼ら自身が口にして説明するのもおかしな話ということになると思います。したがって我々がスクリーンに臨むとき、本来は大場大尉たち日本人が見せる表情や表面的な行動をもって当時の日本人の価値観を汲み取らなければならないわけですが、おそらく現代に生きる我々の価値観では容易に理解できない描写も多数存在していて、それらを説明してくれているのがルイス大尉ということになります。たとえば、玉砕に先立って日本軍の司令部が自決する意味をその描写だけを見て我々は理解できたでしょうか。つまり我々日本人の観客は、あの時代の日本人のことを「アメリカ人の目」を通して理解している、あるいはそういう形でしか理解できないということになり、私が前回の冒頭で複雑な気持ちだと申し上げたのはこの一点です。

我々はかつて存在した日本人の価値観を外国人から教わらなければならないことを恥じなければならないとプレビューに書きました。果たして本作のストーリーおよび表現方法を振り返ると、我々はまさにアメリカ人から我々自身のことを教わったのです。そもそもこれは原作が用いている手法とも言えるわけですが、それではルイス大尉の「解説」なくして、我々は当時の日本人の心情や行動の意味を汲み取り、本作のストーリーやテーマを深く理解できたでしょうか。私は本作が用いた手法は「赤子に教える」ぐらい噛み砕いた表現だったと思っています。戦後65年を経た今、作り手も観客もほとんどが戦争を知らない世代になったことを考えれば、これも仕方がないことなのかもしれないと思いつつ、本作が用いた表現手法から我々自身の「無知」とこれまでの「無関心」を思い知らなければならないとも感じています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

本作の演出については、私が想像していたものとは若干のズレがありました。プレビューでも書きましたが、私は登場人物の感情の機微は俳優さんの表情をもっと時間をかけて撮ることで表現されているものと考えていました。それによって主演の竹野内豊さんの持ち味が生きてくると思っていたのですが、残念ながらそれが遺憾なく発揮されたとは言い難いものとなってしまいました。竹野内さんのお芝居については後ほど触れるとして、本作の演出が一部において登場人物の心情を的確に切り取ることに失敗しているということが端的にわかるシーンを挙げておきます。

大場隊と行動を共にする看護師・青野千恵子(井上真央)というキャラクターは、ほぼ前回紹介したラストシーンのために存在していると考えられますが、テーマ表現という観点ではその機能を弱くしてしまっていると感じています。ラストシーンにおける青野の決意表明はとても重要な意味を持っており、演出的にはそれ以前の彼女の心情変化を印象付ける作業は不可欠でした。青野は序盤にアメリカ軍によって家族を殺され、アメリカ人への憎悪の念を膨らませます。自らも武器を手にとってアメリカ人を殺したいとまで考えるようになるわけですが、収容所に入ってアメリカ人の女性看護師が大場大尉が助けた赤ん坊をあやしている姿を見ることによって、これがまったく別の心情に変化していきます。この心情の変化は、ラストシーンで青野が「私が教えます」と迷いなく表明した意志と密接に関連しているはずですが、はっきり申し上げて収容所の病棟のシーンは青野の心情変化を印象付けるのに失敗しており、ラストシーンのメッセージ性を弱くしてしまっていると思います。

このシーンで青野は、おそらくほとんど初めて兵士以外のアメリカ人の姿を目の当たりにしたはずです。捕まったら殺されると教えられてきた、そして自分の家族を殺した憎悪の対象でしかなかったアメリカ人が日本人の赤ん坊を抱いて微笑んでいる。彼女にとってこれは相当ショッキングな光景だったはずです。演出的にはその衝撃を受けた青野の表情をもっとはっきりと時間をかけて見せるべきでしょう。さらに、近づいてきて「赤ん坊を抱いてみなさい」と英語で言う看護師に対して、青野はどういうわけか首を振って拒絶します。これはおそらく彼女の「とまどい」を動きとして表出させた演出ということになると思いますが、私はここは表面的な動きを広い絵で捉えて表現するのではなく、彼女が受けた衝撃、あるいは怯え、迷いといった複雑な心情を彼女の表情をもって表現するべきだったと思っています。井上真央ちゃんはそれができる女優さんだと私は思います。

青野はこのとき、敵も味方も等しく子供を愛おしいと思える同じ人間であって、それが殺しあわなければならないという不条理で成り立つ戦争の本質を思い知ったのです。そして、このことは彼女自身が体感した戦争の真実を子供の世代に伝えていかなければならないという強い意志が彼女の中に醸成されるきっかけであって、アメリカ人を殺したいという気持ちが、まったく異質のものに変わっていくところが大変重要なのです。この劇的な変化こそがラストシーンで青野が言った「私が教えます」という台詞のバックボーンに存在しなければならないはずですが、この二つのシーンのリンクがとても弱くなってしまっているのは、私は演出に原因があると考えています。

2011030102.jpgさて、本作終盤、クライマックスシーンの演出を振り返ると、正直申し上げて「日和ったな」という印象を持たざるを得ません。大場隊が上官の命令に基づいて「降伏」を受け入れ、「歩兵の本領」を歌いながら堂々とタッポーチョ山を下りてくるシーンは、誇り高く戦った日本軍を印象付ける本作のクライマックスと言えるものです。大場大尉が軍刀を抜き、これまで戦ってきたアメリカ軍に対して最敬礼を払った後、降伏の意思として軍刀を差し出します。このシーンは、よく言えば「厳か(おごそか)」なのかもしれませんが、私には音がないのがどうしても納得できません。

平山監督がこの映画のクライマックスシーンに音をつけなかった理由を想像すると、おそらく日本軍を過剰に美化することを嫌ったのだと思います。平山監督は、戦後の冷戦構造や安保闘争など、イデオロギーの鬩(せめ)ぎあいを目の当たりにし、時代の空気感を肌で感じてきた世代の人ですから、このあたりの描写に繊細な心を配るのも頷けますが、結果として映画作品としての完成度まで落としてしまっているのは残念でなりません。個人的には、本作が切り取ろうとしているのが「日本人の誇り」だとすれば、現実に最後まで誇りを失うことなく戦い続けた日本軍を美化することに及び腰になる必要はないと考えますが、このシーンになんらかのバランス感覚が働いているのは間違いないでしょう。

このシーンに音をつけないという選択は、平山監督ひとりによる決断だったとも思えませんが、テーマ表現という観点からも作品のクオリティという観点からも、私は大失敗だったと考えています。せっかく加古隆さんに作曲を依頼しているのですから、少なくともそのあたりのバランスに配慮したこのシーンにふさわしい音楽を作曲してもらうべきだと思います。あのシーンに音をつけなかったということは、作り手がこの映画が描いてきたテーマの核心を積極的に表現することを避け、受け取る側の想像力に委ねるという消極的姿勢が現れたものであり、この一事だけでも本作への失望感は禁じえません。脚本上は、この後のシーンで大場大尉に「私はこの島で褒められるようなことは何もしていません」と言わせることによって、しっかりとそのあたりのバランスを成立させているだけに、演出的には事実を描くのみで「何も表現しない」という選択をしたことは、正直言って「情けない」としか言いようがありません。

平山監督が本作のテーマの核心をぼかしてしまったことを考えると、そのお芝居で「帝国軍人の誇り」を表現すべくこの役に臨んだ竹野内豊さんにとっては少なからず「迷い」があったのかもしれません。このことは私の印象でしかありませんが、大場大尉の帝国軍人としての側面は客観的かつ、どちらかといえば抑制的に描写されており、私が期待していた竹野内さんの表情ににじみ出てくる心情表現というものが、効果的に用いられていたとは思えませんでした。先に触れたようにそもそも本作は大場大尉の行動論理をルイス大尉に解説させてしまっており、竹野内さんが表現すべき要素が半減してしまっていたのは否めないところでしょう。

前段でこの映画のクライマックスシーンにおいて監督が演出上は何かを表現することを放棄していると書きましたが、それにもかかわらず、このシーンの最後のカットで十秒ちかくも竹野内豊さんの表情を捉え続けてこのシーンのまとめとしようとしたのは、演じた竹野内さんにはちょっと酷だったと思います。監督はここまで竹野内さんの表情のお芝居を最大限に生かす努力を怠っておきながら、最も重要な表現だけは竹野内さんの表情に丸投げしてしまったのです。このシーンでは音(演出)がない中で竹野内さんが表情のみで表現できることはそんなに多くはないのです。私が竹野内さんのこのときの表情から感じ取ったものはそのお芝居の「不完全燃焼」といった印象でした。

2011030101.jpg

私が本作中唯一竹野内さんの表情のお芝居で素晴らしいと思ったのは、終盤、尾藤三郎軍曹(岡田義徳)が今まさに銃剣を喉に当てようとしているのを大場大尉が目の当たりにしたシーンです。このときの尾藤は日本の敗戦をもって自らの軍人としての存在意義が失われたと考えたのであって、序盤に玉砕を主張した尾藤に対して大場大尉が「死ぬために戦うんじゃない、勝つために戦うんだ」と諭したことを考えると、勝てなかった今、大場はこれを止める論理を持ち合わせていません。このときの大場大尉の表情は上官として部下の覚悟から目を逸らしてはならないという強い意思を湛えていますが、これも軍人らしい行動論理と言えるでしょう。この大場大尉の軍人としての意思は、尾藤が命を絶つことを思い止まったとき、安堵という人間らしい感情に変化します。この両極とも言える心情を竹野内さんは本当に微妙な表情の変化で表現しようとしていました。さらにこれは大場大尉が「降伏」を決意するきっかけとなる重要なシーンであり、役柄の複雑な心情とその移り変わり、そして指揮官としての決断までが表情のみで表現されていたということになると思います。

最後に、アメリカパートの演出について触れておきたいと思います。アメリカの戦争映画や戦争ドラマがかなりの細部にわたってリアリティを追求して作られていることを知っている方にとっては、本作におけるアメリカ軍の描き方が「子供だまし」だということにすぐにお気づきになるでしょう。ただ冒頭でも触れたように本作においてアメリカパートはルイス大尉の視点が中心であって、あまり「アメリカ軍」としての描写に細かい突っ込みを入れるのは適切ではないかとも思います。その意味ではショーン・マクゴーウァンさんのお芝居は、アメリカ軍の中にあってルイス大尉という人物を特に際立たせており、そのお芝居の存在感は賞賛に価すると思います。私は向こうの事情に明るくありませんが、おそらく素晴らしい俳優さんをキャスティングできたんだと思います。日本に2年間留学していたという役柄を演じるにあたって、日本語はもちろん、当時の日本のことも相当勉強されたはずで、彼の語り口には強い説得力がありました。大場大尉と初めて会談するシーンを見ても、竹野内豊さんとのバランスはしっくりきたし、役柄の重要性を鑑みても、彼の存在は本作の成功に大きく貢献していたと思います。

関連記事 : 太平洋の奇跡 (追記)(2011-08-22)
太平洋の奇跡 (コメント欄より)(2011-03-06)
太平洋の奇跡 (上)(2011-02-27)
(P)太平洋の奇跡(2011-02-10)

総合評価 ★★★★
 物語 ★★★★
 配役 ★★★★
 演出 ★★★☆☆
 映像 
★★★☆☆
 音楽 ★★★★


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