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最後の忠臣蔵 (下) [映画レビュー]

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(C)2010「最後の忠臣蔵」製作委員会
最後の忠臣蔵 Blu-ray & DVDセット豪華版【特典映像ディスク & 解説ブックレット付き】 (初回限定生産)最後の忠臣蔵 [DVD]

[ DVD ]
最後の忠臣蔵

( ワーナー・ホーム・ビデオ / ASIN:B004FGLVU8 )

『 最後の忠臣蔵 』
( 2010年 ワーナー・ブラザーズ 133分 )
監督:杉田成道 脚本:田中陽造 出演:役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ、安田成美、片岡仁左衛門
          Official Wikipedia / KINENOTE          

最後の忠臣蔵 (上)

本作のテーマ表現のもうひとつの核となる「武士の生き様」についての描写もまた「美しさ」を伴って表現されていたということになると思います。『必死剣 鳥刺し』(2010年 東映)における「武士の生き様」は、そのレビューでも書いたとおり、ラストシーンの壮絶な殺陣に代表される「剣」によって表現されており、さらに主人公の死をもってひとりの武士の生き様を鮮烈に表現していました。それに対して本作では、吉良邸討ち入り後の16年間、瀬尾孫左衛門(役所広司)と寺坂吉右衛門(佐藤浩市)が一貫してぶれることなく体現してきた忠義心の純粋さこそが「武士の生き様」ということになると思います。いわば『必死剣 鳥刺し』の「動」に対して、本作のテーマ表現は「静」であり、前回も述べたとおり、これは表現方法としては決して易しかったわけではないと思います。

< ----- 以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。----- >  

まず、そのような表現の中で決して派手ではありませんが大変重要なのが、とても近いところで瀬尾孫左衛門を見つめる二人の女性の視点ということになると思います。ひとりは可音(桜庭ななみ)、もうひとりは可音と孫左衛門の姿を一番近いところで見守っていたゆう(安田成美)で、この二人の孫左衛門に対する共通の想いというものが、共通の観念で絶たれていくというところに、武士という人生の不可避な宿命を見出すことができます。可音は、孫左衛門に対する特別な感情を率直にぶつけますが、それが叶わぬことだと悟ります。

「武士の心の中に女子は住めぬ・・・うち、それを忘れてました・・・」

可音の想いは、この「武士」という一言によって絶たれていくのです。また、ゆうは孫左衛門の武士としての宿命を十分に理解した上で、あえて残された人生を共に生きたいと願います。しかし、やはり孫左衛門は自らの宿命から目をそらすことはありませんでした。自分の願いが受け入れてもらえないことを知ったとき、ゆうは孫左衛門に握られた手を自ら引くのです。二人がその身を引くときに「孫左衛門が武士である」という一事で得心してしまうところに、当時の社会における武士という存在に対する普遍的な観念がよく現れており、二人の女性の目を通して武士であることの意味、武士に生まれたことの宿命といったものを間接的に切り取ることに成功しています

一方で、武士であることの意味を直接的に表現しているものは、言うまでもなく瀬尾孫左衛門と寺坂吉右衛門が大石内蔵助(片岡仁左衛門)から課せられた使命そのものということになるでしょう。寺坂は生きて真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助する。瀬尾は生きて可留と可音の親子を援助する。この二つの使命が果たされたとき、二人が生きて為したことが「大石への恩義」という目に見える形で報われていくというクライマックスは、確実に二人の武士の生き様と日本人の核心を表現するものだったと思います。

ワーナー・ブラザーズが製作した『ラストサムライ』(2004年)のクライマックスで、渡辺謙さん演じる・勝元がその最期を迎える瞬間に選りによって英語で"Perfect...”と言ってしまったのは、冷静に振り返れば失笑ものであり、やはり欧米人が日本人の本質を正確に切り取るのはまだまだ困難な作業であることを確認しました。もちろん『ラストサムライ』とは違って本作のスタッフはほとんどが日本人ということになるわけですが、そもそもこの原作の映画化に挑戦したのがアメリカの映画会社であるということ自体に、私は欧米人の日本人に対する理解もついにここまで来たかという感慨を持っています。

前回も触れたとおり、本編の随所に挿入されている人形浄瑠璃が本作の結末を暗示しているとすれば、こんなに切なく遣る瀬のない演出はありません。瀬尾孫左衛門の武士としての宿命はどうあっても不可避なものなのです。そして、孫左衛門が大石と可留の仏前で腹を切るシーンは、彼の武士としての生き方を完成させるものです。畳を返した狭く暗い仏間で、短刀の切っ先を腹に押し当てる孫左衛門の姿態と決して苦痛を表に出そうとしない凛とした表情は、まさに「静」、派手さといったものが微塵もない中に独特の「美しさ」を見出すことができます。私はこれは究極の「日本の美」の表現だと思っています。

そこに駆けつけた寺坂がすでに腹を切っている孫左衛門の姿を目の当たりにして介錯を申し出るのは当然のことでしょう。

「介錯、無用」

孫左衛門の最期の言葉はこれです。孫左衛門は自ら首に刀を当てて果てるのです。私に言わせればこれこそ「パーフェクト」。これは時代劇史上、もっともリアルで、もっとも美しい切腹シーンだったと思います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 

本作の演出が殺陣や所作といった日本的様式を見せる作業を潔く捨て去っていて、登場人物の内面という一見しただけではわかりにくい「感情」というものを浮き彫りにすることで本作のテーマに近づこうとしているということには前回も触れました。それでは本作がテーマ表現のために用いた手法とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。私は、この映画は登場人物の微妙な表情の移り変わりを余すことなく撮ることによって、「日本人の心」を切り取ることに成功したと感じています。

本作が多用している顔寄りのショットは、時代劇、もっと言えば映画のセオリーには反する演出だと思います。しかし、ここまで徹底して登場人物の表情を見せられると、画面上に余計な情報がないだけに我々はそこから何かを読み取る作業を拒むことはできず、むしろいつの間にかその作業に没頭しているのです。俳優さんの表情で見せたシーンをいくつかピックアップしてみたいと思います。

2011011505.jpg可音の輿入れが決定した後、雨が降る中、竹林を進む孫左衛門がその歩みを止めて何かを悟ったような表情をします。このシーンでは、人形浄瑠璃「曽根崎心中」の最後の場面が挿入されており、孫左衛門の頭をよぎったものは紛れもなく自らの宿命でしょう。可音の輿入れは、孫左衛門が大石から授かった使命を果たしたことを意味し、もはや彼が現世で為さねばならないことは大石に殉じることによって自らの忠義を完成させることしかないのです。そして、このときの孫左衛門の心情には使命を果たした達成感もあったでしょう。この表情からは16年を経てついにこのときが訪れたという積年の感慨と自らの死への覚悟を決める強い意志が読み取れます。

そして、そのような本作を象徴する演出が、終盤に満を持して登場する田中邦衛さんのお芝居からはっきりと読み取れるのはとても興味深い事実だと思います。可音が多くの赤穂の旧臣に付き添われて輿入れ先に到着すると、大石内蔵助の右腕だった奥野将監(田中邦衛)が登場し、可音への祝いの言上を述べます。このときもカメラは決して短くはない言上を述べる奥野の表情を切ることなく終始捉えており、田中邦衛さんの繊細かつ丁寧な表情のお芝居を見ることができます。これは大石への恩義を感じるすべての旧赤穂藩士の想いを奥野が代弁するというとても重要なシーンであり、そのきわめて形式的な祝辞に反して多くの人々の様々な想いが伝わってくるのは、杉田演出と邦衛さんのお芝居が織り成す魔法のような力を感じてしまうところです。

最後に私が本編を通じてもっとも印象的で魅力的だと感じた瀬尾孫左衛門の表情を紹介します。

「お幸せに、おなりなさい」

茶屋の屋敷に到着後、振り返って孫左衛門の姿を探す可音に対して、彼は声に出さずに最後の言葉を送ります。このときの孫左衛門は、前段で取り上げた表情とは対照的で、優しさに満ちた穏やかな表情をしています。これは父親のそれに近いがそれとも微妙に異なるもので、純粋に可音の幸せを願う気持ちのみを湛えています。この瞬間が二人にとって今生の決別であることを考えると、「もう何も心配することはない、安心して新しい人生を歩んでいきなさい」という可音に対する孫左衛門のラストメッセージがこの表情のみで語られていたということになると思います。この表情には討ち入り以来16年間、可音に対して絶え間なく与え続けた「慈愛」といったものが完璧に織り込まれていたと言っていいでしょう。

杉田成道監督は、フジテレビで『北の国から』などを手がけたテレビドラマ界の巨匠ともいうべき方ですが、そのジャンルを映画に変えても、また決して短くはないブランクがあったとしても、登場人物の内面と小細工なしで正面から向き合うというスタンスは失われることはありませんでした。本作における杉田演出とは、必ずしも映画演出のセオリーに則(のっと)ったものではないのかもしれませんが、杉田監督が『北の国から』に代表されるドラマ作品以来、一貫して表現してきたものに確実に触れることができると思います。本作をご覧になられた方には、20年近く前に杉田監督が手がけた『ラストソング』(1994年 東宝)も併せてご覧いただきたいと思います。表現のジャンルが映画であろうとドラマであろうと、現代劇であろうと時代劇であろうと、杉田監督が切り取ろうとしているものは変わることはありません。そこに生きる人たちの内なる感情です。

(了)

最後の忠臣蔵 (上)

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★
 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★★
 音楽 ★★★★★


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最後の忠臣蔵 (上) [映画レビュー]

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(C)2010「最後の忠臣蔵」製作委員会
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最後の忠臣蔵

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『 最後の忠臣蔵 』
( 2010年 ワーナー・ブラザーズ 133分 )
監督:杉田成道 脚本:田中陽造 出演:役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ、安田成美、片岡仁左衛門
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最後の忠臣蔵 (下)

近年、主に藤沢周平の小説を原作とした正統派時代劇が積極的に映画化されていますが、それらにほぼ共通するのは封建制が成熟しきった江戸時代における「武士の生き様」を描いている点で、本作のテーマは、たとえば『必死剣 鳥刺し』(2010年 東映)のそれとほとんど差異はないでしょう。ただ、ストーリー的にも演出的にもそのテーマへのアプローチがまったく異なるのです。これまで映画化された藤沢作品における武士のアイデンティティとは、大雑把に言えば「剣」だったわけです。剣をもって自らの武士としての生き方を体現し、自らの人生を切り開いていく。そしてその先、あるいはその根底には封建制の根幹を成す主君への忠義心もあったでしょう。それに対して本作は、武士のアイデンティティを表現するツールとしての「剣」を最初からほとんど捨てており、吉良邸討ち入り後も生きることを強いられた二人の赤穂武士の生き様を通して、ダイレクトに主君への忠義心を描いていきます。なるほど、ここまで描かなければ「忠臣蔵」は終わらないということになります。そして、『ラストサムライ』以来、ワーナー・ブラザーズがその本質を切り取ることに腐心してきた「日本人の心」というものを見事に表現しきった作品になっていると思います。

< ----- 以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。----- > 

本作を一言で形容すれば「美しい時代劇」ということになります。この映画の美しさは、たとえば山田洋次監督の時代劇三部作が持ち合わせていない性質のものであり、もっと言えば本邦時代劇史上、最も完成された「美」を表現しているとまで感じています。本作の「美しさ」は表面的な部分では京都を舞台とした景観描写や映像美ということになりますが、大石内蔵助(片岡仁左衛門)の遺児・可音(かね)(桜庭ななみ)の純粋で清らかなたたずまいというものが本作の印象に大きく貢献しているのは間違いないと思います。

私が桜庭ななみという女優を認識し、その存在を鮮烈に心に刻んだのは一昨年にNHKで放送されたドラマ『ふたつのスピカ』で、彼女の感情表現は同世代の女優さんの中では抜きん出ていると思っています。特に悲しみの表現、すなわち「涙」の美しさは天賦の才であり、彼女の黒目勝ちの瞳からあふれる涙はまさに感情の結晶とも言うべきものでしょう。とは言え、いきなり正統派時代劇でストレートに日本女性を演じなければならない本作のような作品に彼女が対応できるのか、私は甚だ不安でした。しかし、観終わってみれば、可音はななみちゃんにしか演じることはできなかったとまで思うようになっています。

私は、この「美しさ」の要ともなる要素を成功に導いた最大の要因は、杉田成道監督が可音という役柄に特別な設定を付与したり、桜庭ななみという女優に対して過剰な要求をしたりといったことをなさらなかった点だと考えています。つまり、「日本女性の心」を小手先の所作や説明的台詞といった表面的なもので表現するのではなくて、あくまでも等身大の桜庭ななみが、等身大の16歳の武家の女性を演じることから生まれるものを重視したのだと思います

花のあと』(2010年 東映)で同じく武家の女性を演じた北川景子ちゃんが数ヶ月かけて殺陣や所作を身に付けたという話を聞きましたが(実際には身に付いていなかったが・・・)、おそらく桜庭ななみちゃんはそこまでのことはしていないでしょう。それでも、本編が日本女性の心やその美しさといったものを切り取ることに成功しているのは、監督があくまでも武家の女性の内面と向き合い、それを表現するために桜庭ななみという女優がすでに持っているポテンシャルを最大限に生かそうと専心した結果だと思います。

本作の演出面を振り返ったとき、私がもっとも好感を持っているのがこの点で、本編では景観描写以外の表面的な「日本の美」についての表現を潔く捨て去っています。その表現とはつまり「殺陣」と「所作」のことで、殺陣については瀬尾孫左衛門(役所広司)と寺坂吉右衛門(佐藤浩市)の立ち合いのシーンがあるものの、これは冒頭で触れたような武士のアイデンティティを表現するためのシーンではなく、剣を交えることで二人が会話をするというような性質を持っています。所作については、もちろん基本的な動きという意味では、役者さんたちは武士および武家の女性のそれを演じておられるわけですが、演出的に所作そのものを見せようとする意図が感じられる場面は皆無だったように記憶しています。

以前『花のあと』における所作の描写を酷評したことがありますが、その本質を知りもしない監督があたかもそれがセオリーとばかりに、まったくできていない、つまり「美しくない所作」をこれ見よがしに盛り込んでいたのは本当に滑稽でした。時代劇に所作を真正面から盛り込もうとするならば、あくまでも所作というものが「日本人の心」を表現するためのツールのひとつにすぎないという認識を忘れてはならないと思います。所作を見せればそれだけで日本人の美意識を表現したことになると考えるのは大間違いです。

ただ、殺陣と所作というものはビジュアル的にわかりやすいので、それらを使いこなせる演者がいれば、実はテーマ表現のためのツールとしてはこんなに楽なものはないのかもしれません。それでも本作があえてそれらを使用しなかったのは、作り手が本作のテーマに真っ向から取り組んだ証拠であり、同時にもっとも困難な表現方法を選択したということになると思います。先に触れたように、本作が「殺陣」と「所作」という時代劇における表現の2大ツールを放棄しているのだとすれば、本作のテーマ及びその先にある日本人の本質は、あくまでも登場人物の内面からあふれ出る感情をもって表現されていたということになると思います。

また、本作の演出を語る上では、冒頭から登場する「人形浄瑠璃」が持つ意味は非常に大きいと思います。本編に登場する人形浄瑠璃の題材は近松門左衛門の「曽根崎心中」で、これは元禄文化のひとつの象徴と言ってもいいものであり、時代描写のツールとしてもその役割は大きかったと思います。他方、テーマ表現のためのツールとしては、その演目が現代でも歌舞伎などで再演されているように、時代を超えて日本人の精神といったものを表現していて、いかにも日本的な悲観的結末を迎えるという点がとても重要だと考えられます。「曽根崎心中」の結末はその題名が示すように実に単純明快、観客の誰もがある結末(=登場人物が命を絶つ)に向けて物語が進行していることを認識して臨んでいるのです。すなわち本作の随所で挿入される人形浄瑠璃の断片は、本作の結末そのものを暗示しているということになると思います。

劇中で人形浄瑠璃が登場するシーンは、ストーリー上は茶屋修一郎(山本耕史)が可音を見初(みそ)めるシーンとなっており、その後、人形浄瑠璃を最後まで見ることができなかった可音が孫左衛門にその結末を尋ねます。可音は登場する男女二人がともに命を絶つことを知るわけですが、同時に我々もその結末をはっきりと認識するのです。さらに、可音は恋仲の二人が最終的に命を絶たなければならないことについての感慨をもらします。

「うちは、恋というものがわかりませぬ」

恋とは理屈では説明が付かないものである、ということがわかった時点ですでに恋というものの本質を理解したも同然であり、実際、可音はこの次のシーンで孫左衛門に対する特別な感情を率直に露わにし、人形浄瑠璃を観劇したことをきっかけにして彼女自身が生まれて初めて恋の当事者になったことが描かれています。可音がその種の感情を「わがまま」という形で孫左衛門にぶつけるのは、16歳の女の子ならではのものということになるでしょう。そして、これまでどおり孫左衛門とずっと一緒に暮らしたいと願う彼女の望みは、とてもささやかなものであり、かつきわめて純粋な感情です。可音は、その種の感情を「涙」という形に結晶化させることによって、孫左衛門に自らのささやかな望みを懇願するのです。

「うちは嫌や・・・うちは孫左と一緒に暮らしたい・・・」

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この「涙」が本当に美しい。いろんな女優さんの涙を見てきましたが、こんなにも心揺さぶられる美しい涙を目の当たりにしたのは初めてと言ってもいいかもしれません。私はこのシーンを観て、可音がななみちゃんで本当によかったと心の底から思いました。このシーンにおける可音の感情は、紛れもなく桜庭ななみという女優が役柄の感情と自らの内なる感情をオーバーラップさせることで生み出したものであり、特別な台詞や特別な所作といったものを用いることなく、正攻法で日本女性の心根の美しさを完璧に表現しています。

次回、本作のテーマ表現の核心となる「武士の生き様」についての描写を掘り下げてまとめとしたいと考えています。 

(つづく)

最後の忠臣蔵 (下)


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  • e97h0017e97h0017大河ドラマ「江~姫たちの戦国」所見。あ~見やすい。昨年は手持ちのプログレッシブカメラとむやみやたらなコーンスターチに付き合わされて相当なストレスが溜まっていたことを実感。今年はカメラフィックスと健全なカット割でリラックスしてテレビに向き合えそう。江は扶助なしで馬に乗れるんですね。

タグ:大河ドラマ

1月期ドラマ期待度ランキング [ドラマプレビュー]

1月期のドラマは、印象としてはこれといった目玉となる作品はありませんでした。
内容についてはどんな売り文句があろうと、実際に観てみなければ判断できないので、
期待度の評価は、スタッフ・キャストに着目したものになりますが、
少なくともその観点からは、今クールでズバ抜けて期待しているドラマはないということになります。
例によって、テレビ朝日のドラマは私の偏見で割愛しておりますので、ご了承ください。

 Time SlotTitleStationCastScriptChief-Dir.
 
火21CONTROL-犯罪心理捜査-フジテレビ松下奈緒、藤木直人寺田敏雄村上正典
月22最上の命医テレビ東京斉藤工、比嘉愛未、陣内孝則中園健司ほか麻生学


月2120110105.gifフジテレビ戸田恵梨香、三浦春馬、武井咲安達奈緒子西浦正記
火22美しい隣人フジテレビ仲間由紀恵、檀れい、渡部篤郎神山由美子今井和久
木22外交官・黒田康作フジテレビ織田裕二、柴咲コウ、香川照之古家和尚西坂瑞城
火22フェイク-京都美術事件絵巻-NHK財前直美、南野洋子岩下悠子ほか大原拓
土21デカワンコ日本テレビ多部未華子、沢村一樹伴一彦中島悟
金22LADY-最後の犯罪プロファイル-TBS北川景子、木村多江荒井修子ほか平野俊一
 日21スクール!!フジテレビ江口洋介、西島秀俊、北乃きい秦建日子ほか土方政人
日21冬のサクラTBS草彅剛、今井美樹高橋麻紀 山室大輔
木21美咲ナンバーワン!!日本テレビ 香里奈、財前直美、戸田恵子江頭美智留ほか大谷太郎
 ※ タイトルは各ドラマの公式サイトにリンクしています。 ※ フジテレビの火22枠は関西テレビ製作です。

フジテレビの『CONTROL-犯罪心理捜査-』とTBSの『LADY-最後の犯罪プロファイル-』は、
同じクールでタイトルとおそらく内容もほぼかぶっているという珍しい状況ですけど、
私は前者の方が確実に面白いと思います。主演女優と脚本担当者の力量を比較すれば、その差は一目瞭然だと思います。
松下奈緒ちゃんも藤木直人さんも大好きな俳優さんなので、期待度は『CONTROL-犯罪心理捜査-』を一番上にしました。
『LADY-最後の犯罪プロファイル-』は、たぶん観ません。

テレビ東京が新設したドラマ枠、前クールの『モリのアサガオ』は、残念な出来でしたけど、
もう少し辛抱強く見守りたいと思っています。今クールの『最上の命医』は、東宝の製作ということなので、
前クールのようなことはないのではないかと期待しています。主演の斉藤工くんは知名度はいまひとつですけど、
舞台俳優としてのキャリアも豊富で、俳優としての信念を感じさせるしっかりとしたお芝居をする方という印象を持っています。
主演に抜擢も納得です。昨年は『不毛地帯』(フジテレビ)、『チェイス-国税調査官-』(NHK)などに出演されていました。

注目の月9、『大切なことはすべて君が教えてくれた』は、「脱ジャニーズ」が鮮明になってきたのは評価したいところですが、
主演のお二人のバランスはあまりよろしくない。正直申し上げて、三浦春馬くんの俳優としての実力は、
戸田恵梨香ちゃんのそれとはかなりの開きがあると思います。彼のワンパターンの顔のお芝居は興ざめの域で、
共演者のお芝居まで壊されてはたまりません。成長していればいいんですけど・・・。
個人的には武井咲ちゃんのお芝居がすごく見たいです。オーディションで800名の中からこの役を勝ち取ったそうです。

『美しい隣人』は内容はともかく、仲間由紀恵さんと檀れいさんの競演はそれだけで魅力的です。
たまにスマッシュヒットを繰り出してくるMMJの製作ですから、要チェックだと思います。
『外交官・黒田康作』は興味本位で拝見してみます。たぶん期待以上でも以下でもないと思います。
『アマルフィ 女神の報酬』では、織田裕二さんが役をもてあましているところがあったので、
織田さんが改めてどのようにキャラクターを掘り下げてくるのかという点もひとつの見所としたいと思っています。
こちらは夏に映画版の公開が控えていて、いかにもフジテレビ的な手法で製作されるドラマということになるでしょう。

日本テレビはどちらもコミック原作。もともとドラマ制作が弱いテレビ局ですから仕方ないですか。
それにしも、いかにもつまらなそうなドラマを毎回送り出してくれます。
TBSはどちらもオリジナル作品で、特に『冬のサクラ』はTBSのヒットメーカー・石丸彰彦プロデューサーが手がけていて、
注目度は高いのかもしれませんが、正直今回ばかりはやっちまった感があります。これは内容で判断しました。

私は、『フェイク-京都美術事件絵巻-』までの6タイトルを観る予定です。
それ以外は初回だけは観る可能性があります。
参考になれば幸いです。。。


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(ご挨拶) [ご挨拶]

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

思えば、昨年の今頃は、『おと な り』のレビューを執筆しておりました。
熊澤尚人監督の才能に触れて、ちょっと興奮気味だったのを覚えています。
その熊澤監督が、昨年秋には『君に届け』という素晴らしい映画を我々に届けてくれたことを思うと、
こうやって映画レビューを執筆することで追いかけられる才能があるということに喜びを感じています。

また、年初めに執筆した『夕凪の街 桜の国』のレビューに佐々部清監督が目を留めてくださいまして、
監督の意図を汲み取った文章として紹介していただくという僥倖を得たことも大きな出来事でした。
その後執筆した『三本木農業高校、馬術部』のレビューも同じように紹介していただき、私がレビューを執筆するに当たって
最も重視している「作り手の意図を汲み取る」という部分を監督ご本人にお認めいただけたことはこの上ない喜びでした。
もしかしたら的外れなこともたくさん書いているのかもしれませんが、
このブログのポリシーに対して目に見える形で一定の評価を頂けたことは大変励みになっています。

偉そうに映画レビューなどと言っていますが、私が日本映画を本気で見始めたのはここ数年の話でして、
まがりなりにもレビューという体裁の文章を書けるようになった下地には、
私の頭の中に膨大なテレビドラマのデータベースがあったからだと思います。
私がテレビドラマを現在のような視点で見るようになった最初は、高校生のときで、
ドラマを作っている人たちの仕事と感性に興味を持ったからです。
学生時代は独学でテレビドラマの演出を勉強していました。

そうやって得たものをテレビドラマのレビューではなく、映画のレビューに生かそうと思ったのは、
単純にレビューを書きたいと思わせるドラマがなかったからで、近年のドラマに対しては失望感すら抱いていました。
振り返ってみると最初に書いたドラマレビューは「期待はずれ」という主旨のものでした。
そして、4月からフジテレビの月9で、問題の『月の恋人~Moon Lovers~』が始まったわけです。
改めてレビューを読んでみると、初回から容赦なく辛辣なことを書いているなぁ・・・と我ながら感心しています(^^;。

昨年になってドラマのレビューを本格的に書き始めたのは、この作品の出来が目に余ったからという消極的理由であって、
いよいよ十数年にわたって視聴してきた月9に見切りをつけなければならないかも知れないとさえ思い始めていました。
そんなときに出会ったのが、『流れ星』でした。

観る前の印象としても、これまでの月9とは違ったテイストのドラマになるのではないかと期待していたのですが、
私はこのドラマの初回冒頭の10分でその印象が間違っていなかったことを確認しました。
NHK以外のドラマでは初めてしっかりとしたレビューらしい文章を真剣に書かなければならないと思わせてくれました。
しかし、当初はここまでのドラマになるとは思ってもみないことで私の想像力をはるかに超えたドラマだったということは、
最終回の長大なレビューを書きながら強く実感するに至りました。そして、素晴らしいドラマを観て作り手の意志と向き合い、
真剣にレビューを書くということがこんなに楽しいものだったということを初めて知りました。

今年も、ドラマのレビューも積極的に書いていきたいとは思いますが、
こればかりは、書きたいと思わせるドラマに出会えなければ始まりません。

もちろん質の悪いドラマに出会って、作り手に物申さなければならないと感じたら、酷評もしてくつもりです。
映画のレビューも同様で、レビューは書きたいと思わなければ書けないというのが本当のところです。
実際、観てもレビューを書か(け)ない作品の方が圧倒的に多いのです。
したがって、今年もレビューの更新は不定期になります。ご了承ください。

最後に、『流れ星』のレビューを執筆することで、
多くの方に映画やドラマを作っている人たちの真摯な想いを伝えられたと実感できたのが昨年中、最大の出来事でした。
ポリシーを曲げずにこのブログを続けていて本当によかったと思っています。
そのきっかけとなった『流れ星』に感謝するとともに、私の文章を読んでくださった多くの方に感謝したいと思います。
私の『流れ星』のレビューを丁寧に読んでくださった皆さん、そしてコメントをくださった皆さん本当にありがとうございました。
これからも暇を見つけて当ブログにご来訪いただければ本当に励みになります。
本年もよろしくお願い申し上げます。

ジャ