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僕等がいた 前篇 [映画レビュー]

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(C)2012 「僕等がいた」製作委員会

『 僕等がいた 前篇 』
( 2012年 東宝=アスミック・エース 123分 )
監督:三木孝浩 脚本:吉田智子 主演:生田斗真、吉高由里子
          Official Wikipedia / kinenote           

僕等がいた 後篇 

デートムービーとして価値は高いのかもしれませんが、前篇のみを評価すれば、手放しで面白かったと言えるストーリーではなく、どこか後篇への壮大な前ふりのような感覚がありました。本作については後篇を観なければ作品としての正しい評価は下せないように思いますので、今回は演出面のレビューとします。

私は本作を観るにあたって、予習というわけではありませんが、三木孝浩監督の作品をいくつか観た上で映画館に足を運びました。ミュージックビデオ出身の監督だけあって、とても美しい絵を切り取る方で、評価できる部分もあるのですが、映画がミュージックビデオと異なるのは、画に意味があるかどうかということで、ただ単にキレイな映像を並べるだけの映画があるとすれば、私はそういう作品には魅力を感じません。

本作をご覧になられた方の中で、同系統の映画『ハナミズキ』や『君に届け』といった作品を思い出した方は少なくないと思います。特に本作と同じく漫画原作を持つ『君に届け』は、演出面を論じるならば恰好の比較対象となりえます。このブログをずっと読んでくださっている方ならご存知かと思いますが、私は『君に届け』の熊澤尚人監督の演出を高く評価していて、映像に意味を付与するという明確なセオリーを持つ数少ない映画監督だと思っています。

それでは本作のような王道の恋愛映画におけるセオリーとは何なのでしょうか?これは私の個人的な認識なので、あくまでも「ひとつのセオリー」として考えていただきたいのですが、私はラブストーリーにおいては「二人の距離感」を表現することがとても重要だと考えています。なぜなら誰かを好きになるということは、特にその初期段階においては相手との距離感を意識することと同義であり、物理的な意味でも精神的な意味でも、相手を遠くに感じたり、近くに感じたりすることが恋愛の醍醐味と言っても過言ではないからです。近いけど遠い存在、遠いけど近い存在・・・この距離感を強く意識することこそが恋愛の本質なのではないでしょうか。

映画やドラマにおけるこの種の距離感というのは、もちろん脚本上のエピソードの中で表現することも可能なのですが、「距離」とは物理的なものでもあるので、当然、画で見せるという演出的要素も欠かせません。詳しいことは『君に届け』のレビューを読んでいただくとして、熊澤尚人監督はこの映画において「二人の距離感」を映像表現の中に巧みに組み込んでいます。この映画には主人公二人の距離が拡がったり、縮まったりする様子を数十秒にわたって台詞のない映像で見せるシーンがあり、お互いを意識し始めたばかりの二人の心情を物理的な距離感を見せることによって表現することに成功しています。これは脚本上のエピソードとは異なる性質を持っていて、これこそが「映画演出」と呼ぶべきものだと思います。

しかし、残念ながら本作においては、この「二人の距離感」を演出的に表現しようとする意図はほとんど感じられませんでした。監督の意図が「二人の距離感」を表現することよりも「映像的美意識」に強く引きずられていることを感じさせるシーンがありましたので、取り上げることにします。

私が述べた「セオリー」に則れば、ラブストーリーにおけるもっとも重要な場面がキスシーンであることはすぐにご理解いただけると思います。当然、二人の距離が「ゼロ」になるのがキスだからです。本作におけるキスシーンとは、夏祭りの夜、学校の屋上のシーンということになりますが、実は私が本作の映画としてのクオリティを見切ったのもこのシーンになります。私がとても残念思っているのが、このシーンの映画全体の中での位置づけが、二人が相思相愛になったことをキスによって表現したということ以上のものではなかったことで、ラブストーリーにおけるメインイベントに何の味付けもなされていなかったとなれば、それだけでこの映画が凡庸なラブストーリーと評価されても仕方がないと思います。

「キス」について語る自分を少々滑稽にも思っているのですが・・・、二人の距離が「ゼロ」になるまでには、双方それぞれに無数の心の動きがあるはずなのです。手が触れる、目が合う、相手の唇を意識する、気持ちが通じ合う、目を閉じる・・・唇が触れるまでの緊張感、ドキドキ感、そして唇が触れた瞬間の二人の歓喜・・・そういったものを映像で表現するのが映画監督の仕事なのではないでしょうか。本作のキスシーンには、二人で並んで座っている状態から「ゼロ」になるまでの主人公二人の心の動きがすっぽりと抜け落ちているのです。

二人が口づけ交わすと、すぐに広い画に切り替わり、二人の背後に花火が打ち上がってこのシーンは終わります。私はこのカットを観て、結局、監督は二人のキスに何らか意味を付与したかったというよりも、最初からこの画を見せたかっただけなんだと感じました。

「学校の屋上で、初めてのキスをする二人。その背後に花火が打ち上がる」

本作のキスシーンには、脚本に活字で書いてあること以上のものは映っていなかったように思います。もちろん美しい映像を撮ることも映画監督の重要な仕事だと思います。しかし、そのための映画だと考えているとしたら、その認識は改めてもらわなければなりません。登場人物の中に存在する「無数の心」を想像し、それを映像に刻み付けるために最も効果的な手法を選択するのが映画監督の仕事なのではないでしょうか。残念ながら私はこのシーンを見たとき、監督は「目に見えるもの」をキレイに撮ることしか考えていないように感じました。

このシーンに限らず、終盤の後夜祭のシーンなども「二人の距離感」を表現するには絶好のシチュエーションだったはずですが、主人公二人の「すれ違い感」とそれに伴う「もどかしさ」のようなものがまったく感じられなかったのは、演出のせいだと言い切っていいと思います。これはもちろん私の感想ですが、最初から最後まで他人の恋愛を客観的に見ていた感覚は拭えず、それもそのはず主人公二人のドキドキが感じられなかった(=表現されていなかった)以上、自分自身がドキドキするわけがないのです。

私は後篇に向けて、本作の演出面に期待するのは止めることにしました。嵐の前の静けさじゃないですが、このどちらかと言えば淡々としたと言ってもいい前篇のストーリーを観る限り、なんとなく後篇にはとんでもないカタルシスが待ち受けているような気がしてならないのです。演出面を切り捨てなければならないのは映画を観る楽しみが半減するというものですが、本作のストーリーを語るためにはもう一度映画館に足を運ばなければならないようです。

関連記事 : 僕等がいた 後篇 (2012-04-30)

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★★☆☆(原作漫画のものだろうか、印象的な台詞が多数散りばめられていた点は評価したい)
 配役 ★★★☆☆
 演出 ★★☆☆☆
 映像 ★★☆☆☆
 音楽 ★★★☆☆


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