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(11)最後から二番目の恋 [ドラマレビュー]

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『 最後から二番目の恋 』
最終回
( 2012年 フジテレビ 公式サイト

演出:宮本理江子 脚本:岡田惠和 出演:小泉今日子、中井貴一、坂口憲二、内田有紀、飯島直子

最終回を観終わった今、私が抱いている率直な感想・・・私などにはレベルの高すぎるドラマでした。
これまでのレビューにおいて、もっともらしいことを偉そうに書いてきましたが、全部的外れ。
中でもタイトルの意味を読み間違えていたのは致命的。自分の想像力の浅さを恥じるしかありません。

私が曲がりなりにもこうやって映画やテレビドラマのレビューと称するものを書くことができるのは、
過去に観た膨大な映像作品の記憶とその蓄積があればこそで、私が書いているものとは、言ってしまえば、
それらの作品群をベースとして私の中に構築されている「型」に当てはめたり、それらと比較したものに過ぎません。
したがって、文章にするにあたっては「型破りのドラマ」というものにはなかなか対応できないようです。

たとえば、昨年テレビ東京で放送された『鈴木先生』もまたある部分では「型破りのドラマ」だったのかもしれません。
しかし、振り返ってみると、『鈴木先生』が型破りだったのは、あくまでも表現手法であって、
実は表現しているものの本質は極めて普遍的なものなのです。これは『家政婦のミタ』にも同じことが言えます。
そういう観点で言えば、本作は表現手法が型破りの上に、テーマ設定も型破りという、
もともと私の手に負えるような代物ではなかったわけです。

そもそもテレビが想定する受け手とは不特定多数ですから、
テレビドラマが用いる表現手法もテーマ設定も平均値であるのが一番無難なのです。
だからこそテレビドラマの創成期以来、刑事ドラマや医療ドラマといったジャンルは今もなお作られ続けているし、
また、恋愛や友情、家族といった抽象的かつ普遍的なテーマを描いてきたのがテレビドラマの歴史です。

それでは本作のテーマとは何だったのでしょうか?あまり一言では定義したくないのですが、
40歳代、50歳代を迎えた人たちが向き合う人生の延長戦」とでも言うべきものだったと思います。
これについてはさまざまな意見があると思いますので、これと決め付けるつもりは毛頭ありませんが、
いづれにしろ、テーマ設定は具体的かつピンポイントですよね。
同時に(民放の)テレビドラマがいまだかつて描いたことがなかった斬新なテーマ設定だと思います。
つまり、本作のテーマ設定は「映画的」だったと言えばわかりやすいかもしれません。

私は以前、本作について「作り手の実感がこもっている」と評しました。これについては間違っていないと思っています。
この「作り手」を具体的に指名すると、脚本を担当している岡田惠和さんとチーフディレクターの宮本理江子さんのことで、
中井貴一さん演じる和平には岡田惠和さん自身、小泉今日子さん演じる千明には宮本理江子監督、
それぞれの考え方や実感が役柄に大いに投影されているのはほぼ間違いないと私は考えています。
状況証拠を挙げれば、和平を役所勤めにしているのは、脚本家が自分のイメージを落とし込みやすい器だからで、
逆に千明をテレビ局のプロデューサーという特殊な職業にしているのは、適任の取材対象が身近にいるからです。

以上のようなことを踏まえれば、本作がコメディという手法を採用した理由のひとつは、
描いているものがあまりにも生々しすぎて笑い飛ばさなければ恥ずかしくて観て(作って)いられないからではないかと
勝手に分析しています。これは受け手にも同じことが言えて、結論は別として、そこに至る過程をシリアスに描いてしまうと、
テーマがピンポイントなだけに、あまりにも生々しすぎて主人公に近い年代の人たちは目を背けていたかもしれません。

千明の言動について「同年代の女性を馬鹿にしている」という意見があったそうですが、
我々は、本作のテーマを客観的かつ冷静に描かれてしまったときのことを想像しなければなりません。
繰り返しになりますが、本作が描いたものとは、結論は別としてそこに至る過程はそもそもネガティブなのです。
ネガティブなものを描くときはリアリティなんて無用の長物です。特にテレビドラマにおいては。
テレビドラマの表現手法としては、多少誇張してでも正反対の方向に持っていくのが正解なんだと思います。
つまり、自虐的に描く。だからこそ作り手も受け手も救われるのです。

さて、私はこのブログで映画やドラマのレビューを書くに当たっては、
「作品が描いているテーマを深く掘り下げる」ということを主眼にしているつもりなのですが、
本作のテーマについては一言で定義はしてみたものの、どう手をつけていいのかわからないというのが正直なところです。
そもそも主人公とは生まれた年代が違いますから、私は「二人に共感した」という感覚はまったく持ち合わせていません。
自分の将来を二人に重ねて想像する、できるのはそれぐらいのことでしょうか。
これについては、主人公と同世代の方の評価を待ちたいと思います。

いづれにせよ、和平と千明の掛け合いが来週からはもう観られないと思うと本当にさびしいですよね。
二人が互いに対する好意をいつもの流れの中で言ってしまうというラストも見事でしたから。

最後に、本作成功の最大の功労者、中井貴一さんと小泉今日子さんのお芝居を改めて賞賛するとともに、
お二人に対する感謝の気持ちを添えさせていただきます。お二人は次の作品ではまったく別の顔を見せてくれることでしょう。

(了)

(追記)
本作については今月中に寄稿いたします第1四半期のドラマを総括するレビューでも言及するつもりでおります。

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Sho

このドラマを観るつもりは全く無かったのですが、ジャニスカさんのツイートを拝見しているうちに興味がわいてきて、「ONエアシーン、除かれたシーン」のところだけ観ていました。
なので感想を述べるというレベルでは全然無いのですが、興味が引かれるなあ・・と、観るたびにその思いが募っていきました。
タイトルはどういう意味なのかなあ?とか、次男は何の病気なのかなあ?とか、こちらを訪れるたびに思っていました。
また、「このドラマには死のにおいがする」という評を御紹介いただきましたが、ドラマのほんの部分部分を観ただけの私も、それは感じました。もちろん嫌なものとしてではありません。
多分この主人公と私は完全に同年代なのですが、いつかきちんと観てみたいなあ・・と思いました。
御紹介いただき、ありがとうございます。
by Sho (2012-03-24 13:02) 

ジャニスカ

Shoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
最終回から数日を経て、改めてレベルの高いドラマだったなぁと感心しています。
このテーマをこのアプローチ(コメディ)で描くという発想自体が普通じゃありません。

私はこのドラマの根底に「死のにおい」があるのは今となっては間違いないと思っていて
以前のレビューにも書いたとおり次男・真平の病気と和平の妻の死がそれを暗喩していると考えています。
そして本文に書いた「ネガティブさ」の正体とはまさにこれです。

Shoさんは今年NHKで放送された『キルトの家』というドラマをご覧になられましたでしょうか?
私は本作のテーマそのものはこのドラマにとても近いものがあると感じています。
登場人物の年齢はもっと上(老人)なので、「死のにおい」はずっと強烈なはずですが、
最初から山田太一流のユーモアと強い仲間意識を見せる手法でそれを払拭している。
でも高齢化した古い団地が抱える問題や東日本大震災をストーリーに絡めたりして、要所では
ピリッとしたものを視聴者に意識させる。民放では絶対に作れないタイプのドラマだと思いました。

ここからは私の推測なのですが、この二つのドラマが創作されるに至ったきっかけは
ほとんど同じくしているのではないかと思っています。つまり、東日本震災です。
それなのにこれだけ表現手法に大きな差がある理由は、やはりNHKと民放の違いだと思います。
民放にとって視聴率は「最大の制約」ですから、コメディという手法を採用したもうひとつの理由は、
それがピンポイントなテーマを多くの人に見てもらう最良の手段だと考えたからかもしれません。

例によって理屈っぽくなってしまいましたが(^^;、
一番重要なのは、我々がそういう「理屈」とはかけ離れたところでこのドラマを楽しめたということで、
そのことは最終的にこのドラマの主人公がたどり着いた結論と合致する
「明るさ」と「前向きさ」、あるいは楽観主義をそもそも内包していたものだと思います。
その意味では本作は「究極的なドラマ」なのかなぁという気すらしてしまいます。
昨年の『鈴木先生』にも驚きましたけどテレビドラマの表現も着実に進化していると思うと本当に嬉しいです。
一方で旧態依然とした表現に慢心しているドラマプロデューサーが大部分なのも事実ですが。

いろいろ言いましたが、純粋に中井貴一さんと小泉今日子さんの掛け合いを楽しむのが
このドラマの正しい見方です。ひと度このドラマを観てしまえば私が述べた屁理屈なんて
忘れてしまうほど楽しいドラマなので心配ないとは思いますが、念のため。
Shoさんもいつかぜひお腹を抱えて笑ってください!(^^)
大笑いしてあげるのがスタッフ・キャストへの最大級の敬意と賞賛となるはずですから。

by ジャニスカ (2012-03-25 14:22) 

トマトマン

ジャニスカ様
はじめまして。「最後から二番目の恋」を検索中にヒットし、ブログを拝見させて頂きました。(2月の末くらいからだったと思います。)
ジャニスカさんの解説はとてもわかりやすくなるほどと思わせられました。そして…最終回放送後のブログでジャニスカさんが完敗宣言したのを拝見しますますジャニスカさんが好きになりました!(ってそんなシーンありましたね。智美チャン風ですいません。)

さて、このドラマ私にとっては最初ちょっと不思議でした。実は私普段ドラマはほとんど見ません。妻が録画したのをちょこっと見るのですがちょこっと見てさよならです。ところがこれは…
ちょうど第6話の録画を妻が見ていていつものようにちょこっと見たらはまってしまいました。そのちょこっとのシーンは和平と千秋のシーラスのシーン。私は出かける予定だったのでこのシーンのみ見て出かけました。(小泉今日子と中井貴一がこのドラマの主人公ということを知らなかったが、たった数分で主人公とわかり、その瞬間「不揃いのリンゴたち」とか「なんてったってアイドル」とか思い出し妙に懐かしさを感じた。そして「ああ鎌倉が舞台ってこのドラマか」ということも思い出した。)
言うまでもなく帰宅後第一話からネットで見ました。(録画は妻が消してしまった)もちろん6話まで通して。

その時の第一の感想は「この懐かしさとともにあるリアル感は一体何なんだ」と思いました。
実は私鎌倉の出身で今は雪国に住んでます。鎌倉が舞台のドラマがあるというのはうちのパートさん(うちは自営業なので)から聞いていましたが、別に鎌倉が舞台だからってそれが何?程度だったのです。ところがこのドラマとの出会いがシーラスのシーンでの掛け合い。しかも中井貴一と小泉今日子。あの数分のシーンが私の心をつかんでしまった訳です。

それ以後何度もネットでこのドラマを見続けました。麻薬中毒患者のように。
その都度「何だろうこの感覚は?」と思っていましたが「別にどうでもいいかそんなもん。面白いんだからそれでいいじゃん。」って。
そして最終回を見終わって全てわかりました。この感覚~「懐かしさとともにあるリアル感」。

「卒業アルバム」です。
私の場合小、中学校が鎌倉の公立学校でとても面白く過ごせたので特別な思いもあることは確かです。ロケ地が通学路だったり、当時付き合っていた女の子のうちのとなりもでてきたり。
しかし、それを差し引いてもこのドラマの持つ独特の雰囲気はタダものではなかったのです。

「卒業アルバム」とは…
卒業アルバムを開くとそこには「今とは違った選択をした今現在の自分や友達が載っている。」そんな感じです。(ハリーポッターならあり得るなァ)
私は中井さんと小泉さんのちょうど真ん中の年でもあるので、彼らの演技が当時の延長線にあるのです。
おそらくこの世代の方々は多かれ少なかれ私と同じ感覚を持ったと思います。70’S、80’S世代です。この世代は結構素直で、前向き、でした。(最終回でヤンキーとか、カツアゲとか、峠を攻めるとか、いやー懐かしい、懐かしい。)
また、鎌倉とか湘南とか当時のトレンドでしたから。

もちろんこの世代の方たち全てが楽しく、自由に、前向きだった訳ではありません。斜めに構えていたりしている人もましたし、いい思い出がなかった人もいるでしょう。そして現在、現代社会に染まって閉塞間の真っ只中の人もいるでしょう。そんな人にとっては逆にこのドラマはつらく否定的にとらえることでしょう。

脚本家の先生も、演出家の先生も、この「古き良き時代」をもちろん経験している訳で、それに加え、中井さんも、小泉さんもその世代ということで息も合い、アドリブも利き、「役」ではなくある意味「地」でドラマが出来上がったのかなあと思います。だからこそ、そこに我々は共感した訳です。「長倉和平をはじめとした長倉家」も「千秋」も友達だったり、先輩だったり、後輩だったり。

このドラマに共感したこの世代の上の方々はおそらく「いたいたあんな奴ら」と思ってみたかもしれません。
下の世代の方々は、「何かあんなのいい感じじゃん」て思ったことでしょう。

今を一生懸命生き、前向きに、明るく。そして自己主張もする。この世代は本質的にそういうものを持っている人が多かった。(少なくとも自分の周りには)
暴走族も真剣にやっている奴多かったし、喧嘩も多かった。校内暴力もそう。陰湿ないじめは逆にたたかれた時代。そう「おっとこらしくないですね」と千秋のセリフに代表されるように。
和平と千秋の掛け合いはその延長なんです。もちろん水谷夫婦も。万理子や、真平、智美はそんな世代の次、また次の世代だと思います。
特に最終回最後のシーン。千秋と和平の掛け合いの中でお互い本音で自分の気持ちを告白するシーン。同世代の人たちは心あたりあると思いますよ。(自分の事に限らず、また恋愛ごとに限らず)

懐かしさのあるリアリティー。
単純に、純粋に、素直に、この世代を表現するに当たり、コミカル要素を入れてドラマ化した、別に難しくないって言えば全然難しくないのかもしれないが、だからこそそこがレベルが高いのかもしれない。
簡単なことって意外と難しいからね。(そんなセリフもあったね)

今の時代忘れかけられている、もっとも大事なことを思い出させてくれたそんなドラマでありました。

長々と失礼いたしました。
by トマトマン (2012-03-27 01:54) 

ジャニスカ

トマトマンさん、はじめまして。
主人公と同年代の方のご感想待望しておりました。本当にありがとうございます。
本文の冒頭で書いたことは、実はずっと前から感じていたことでして、
このドラマの概観は把握できても、本質には一向に近づけていないような気がしていました。
この度、トマトマンさんが書いてくださったことは、私がまったく持ち合わせていない視点で、
おかげ様でこのドラマのテーマの核心に近づけたような気がしています。

私は本作の舞台が鎌倉である理由は首都圏では数少ない古さを残した町だからだと考えています。
45歳となった千明は、自分自身の体の異変や自分を取り巻く環境の変化を敏感に感じ取って、
漠然とした「死」を意識してしまった時、
これまでと同じ生き方をしていくのは無理があるのかもしれないと思い始めます。
そこでこれまでとは違う穏やかな生活を求めて、鎌倉に最後の住処を求めるわけです。
つまり、「変化」を感じ取った千明は、それに「変化」で対応しようとしたんだと思います。

ここからはトマトマンさんの感想を読んで初めて思いついたことなのですが、
和平との出会いは、そんな千明に昔の生き生きとした自分を蘇らせてくれたんだと思います。
千明はそのことを最初ははっきりとは自覚していなかったかもしれませんが、少なくとも
和平との掛け合いをとても居心地のいいものだと感じるようになっていったのは間違いありません。
千明は古いものの良さに満ち溢れた鎌倉の地で、古き良き時代の自分を思い出したんだと思います。
和平との出会いによって、自分は変わらなくてもいいのかもしれないと思い始めたのです。

一度でも「死」を意識してしまった千明にとって、
真平との恋が「最後の恋」になる可能性は否定できなかったはずです。

「最後=特別=変化」

私は本作のタイトル「最後から二番目の恋」が持つ意味とは、
この感覚を否定しようとする観念なのではないかと考えるようになっています。
恋愛においても人生においても「最後」を意識して、安易に「変化」を選ばない。
つまり、自分の過去も未来も平等に受け入れ、その瞬間の自分を否定しないということです。
千明は鎌倉という土地と和平の存在がそれを容易に実現させてくれるものだということに気づいた時、
これからの人生に楽観的な前向きさを見出すことができるようになったのではないでしょうか。
そのことを端的に表現しているのがラストの千明によるモノローグだと考えられます。
第1話冒頭のモノローグと比べれば、千明の考え方の違いは一目瞭然です。

またまた理屈っぽくなってしまいました(^^;。
こうやって言葉にしないと納得しないというのは私の癖ですので、聞き流してください。

>ヤンキーとか、カツアゲとか、峠を攻めるとか

最終回におけるこのキーワードに込められた意味は、私には全然わかりませんでした。
そう言われてみれば想像はできますが、トマトマンさんのような実感は伴いません。
そう考えると、これまでの千明と和平の掛け合いの中には
絶妙に「懐古」という感覚がちりばめられていたのかもしれませんね。
私は二人の掛け合いの表面的な楽しさしか感じ取れていなかったのかもしれません。
そういう観点で見直してみるときっと楽しいですね。もっとも世代の違いは如何ともしがたく、
私にはトマトマンさんのような楽しみ方ができそうもないのはちょっと悔しいです。
そもそも「ファンキー」だって世代を示すキーワードだったんですねぇ。
自分にも自分の世代ならではの懐古のポイントやキーワードがあるのかもしれませんが、
千明と和平、トマトマンさんの世代のファンキーぶりにはちょっと敵いそうもありません(^^;。


トマトマンさんには本当に感謝です。
おかげでこのドラマを総括することができた気がしています。
本作のような作品に出会うにつけ、まだまだテレビドラマも捨てたものではありません。
これからも時間が許せば奥様と一緒にいろんなドラマを楽しんで頂きたいです。
私もテレビドラマの魅力を伝えられるようなレビューを引き続き書いていきたいと思っています。
これに懲りずにたまには覗いてみてください。お待ちしております。

by ジャニスカ (2012-03-27 22:12) 

トマト

ジャニスカさん

たびたび失礼いたします。
驚きました。完璧な解説。

特に
>「最後=特別=変化」

私は本作のタイトル「最後から二番目の恋」が持つ意味とは、
この感覚を否定しようとする観念なのではないかと考えるようになっています。~以下6行

そうここなんです。私が最後に書いた
「今の時代忘れかけられている、もっとも大事なことを思い出させてくれたそんなドラマでありました。」
というのは。

ジャニスカさんはご自分で、理屈っぽいとか、言葉にしないと納得しないとかおっしゃっておりますが、私的には「物事の本質を見ようとしてる人」とお見受けします。ですからジャニスカさんのブログに反応したわけです。
なんか、レビューっていうより「気づき」ですよね。
今思い出してみると、最後のモノローグの最中に女子会でのカラオケの曲が今井美樹の「PIECE OF MY WISH」の一節でしたね。もうちょっと前まで戻ると、同じく女子会で「いつからこんなに汚れちゃったんだろうね」という会話。こんなところからもこのドラマの主題がここにあり、しかもそれを完璧にド真ん中を解説したジャニスカさんにはホント驚きです。

私はドラマのテクニカルな部分とか、表現の手法とか、最近のドラマのこととかよくわかりませんが、このドラマはおっしゃるとうりいたる所に「懐かしさ」が散りばめられていました。(そう言われると思い当たる節が沢山ありました。第一話で「エロ本」を使ってくるところなんて最高ですよね。掛け合いの中での「私に任せていただけますか?」(第6話シーラス。当時はもっともくさいセリフの一つでありました)女子会で、祥子が千秋のもと彼と付き合ったのをポロって言ってしまうところはまさに私の友人達が経験した事。などなど。
そういった部分を我々の世代は懐かしく、楽しめたと思うし、千秋が自分を変えてまで真平との事を最後の恋かもしれないと意識し、一方で和平に対して本当は気になる相手なのに本心に気がつかない。と行ったところに、これまた我々の世代としては切なさを感じてしまったのではないでしょうか。

さらに言うなら、ジャニスカさんも言われていました和平がわざわざ東京まで千秋に謝りに行くシーン。
和平が自分の律儀さを利用し自分のまだ気がつかない本音に沿った行動をしてしまう。こういうのを見ると我々の世代は安心しちゃうんです。とどめに、時折見せる和平の落ち着いた大人の物言い。(真平の病気の事を話すところや、誕生日のローソクのシーン)まだ世の中がわかっていない自分たちに対して諭してくれるやさしい先生見たいなものをそこに感じ、それ故に温かみを感じてしまう。(もちろん千秋自身も感じている。)諭されるというのは否定されるということではなく、逆に自分を認められているということですからね。

もうひとつ書き添えさせていただきたいのは、今日息子(大学1年)が東京から帰ってきまして、このドラマにはまったと言っておりました。息子は鎌倉には住んだことはありません。実家に遊びに行ったくらいです。その彼は、「あの雰囲気がいい」といっていました。彼なりに共感する部分があったのでしょう。
その共感した部分とはジャニスカさんの解説の通りだと思います。
他の人のドラマの感想を見ていましても単なるラブコメではなく、引きずりこまれている方が多かったように見受けられたのは、「卒業アルバム」「懐かしさのあるリアリティー感」の底にある何か「本質的」なものがあったからだとジャニスカさんの解説を読んで納得したところです。

またしても勝手なことを長々と言わせていただきありがとうございました。

追記

ドラマの終了5ヶ月後の長倉家。夏いつものように偶然極楽寺の改札で顔を合わせる二人(蒸し暑くイライラしている)
些細なことでお互い言い合いが始まる。その頃長倉家ではひと悶着起こっており…またしても千秋が巻き込まれ…。喧嘩をしながらも時々カフェを手伝う智美もそこに加わり…。
一段落したかに見えたのもつかの間、今度は・・・・。
エンディングにて
花火大会の当日、長倉家でみんなで花火大会を見ているのだが、なぜか最後には和平と千秋の二人きりになりそこで一連のドタバタについてまたしても和平と千秋が言い合いになるのだが・・・
突然和平の一言に妙に千秋が納得。すかさず
和平・・・○○○(この部分は千秋には聞こえているが花火の音で視聴者には聞こえない)
千秋・・・おっとこらし~
   (花火がど~ん)
   いつか、またどこかで・・・・

ってみたいなの期待してはいけないでしょうか!? 失礼いたしました。オヤジの楽しみです。
by トマト (2012-03-29 01:27) 

Sho

こちらをお訪ねして、思ったことをお伝えしよと思いながら日が経ってしまいました。
トマトさんのコメントも、大変興味深く読ませていただきました。

「キルトの家」は、大好きな山田太一氏のドラマでもあり、「観たい!!!」と思いましたが結局観られませんでした。今の自分には、あのドラマを観るだけの気力体力が在りませんでした。
山田太一氏といえば、私は「ふぞろいの林檎たち」の登場人物と完全に同世代になります。
あのシリーズが回を重ねるたび、まるで知り合いの動向を観るように観てきました。

女の人にとって45歳頃というのは、「そろそろ次の世代にバトンタッチ」する時期のような気もします。
特に「組織」の中で生きてきた人にとっては。
生き馬の目を抜くような世界で、全身全霊で戦ってきた(と思われる)主人公には、ある種の敗北感を感じる時期だったようにも思えました。(組織で働く人、としても、女としても)

いずれ最初から観てみたいと思うドラマでした。

ジャニスカさんの詳細なレビューには感謝ですし、毎回楽しみです。

by Sho (2012-04-01 07:02) 

ジャニスカ

トマトマンさん、こんばんは。お褒めいただきありがとうございます。
私が辿り着いた結論を主人公と同年代の方に共感していただけたらこんなに嬉しいことはありません。

そうです。すべては「気づき」から始まるのです。
でも重要なのはそこから先で、気づいたことを材料にして「思考」しなければなりません。
私が映画やテレビドラマを今のような見方をするようになったきっかけは、
すべての作品には「作り手の思い」が詰まっているということに気づいたことなのです。
もう20年近く前のことになります。変わっているかもしれませんが、
それ以来私は少しでも作り手の思いに近づきたいと思いながら映画やテレビドラマを観てきました。
そして、私が辿り着いた解釈をこうやって文章にして多くの人に知ってもらうことは、作り手の思い
に報いることになるはずだし、それが作り手に対する私なりの敬意の表し方だと今は考えています。

「エロ本」のくだりについては、私もすごく感心してしまったのを覚えています。
このドラマの表現は、洗練されすぎて行く所まで行ってしまっているなとすら思いました。
このドラマにはすべてのシーンと台詞にちゃんとした意味が込められているに違いないと感じて、
このドラマとは真剣勝負しなければならないと思うきっかけとなったシーンです。

ご子息の感想は作り手も喜んでいると思います。
私もこのドラマの「雰囲気のよさ」は世代を超えて伝わるものだと思っています。
特に若い人には時として変わらないことの良さや難しさがあることを知っておくのは大事かもしれません。
時代が目まぐるしく変化する世の中にあって、忘れてしまっていたものを思い出す。
私にとってもそういうきっかけとなるドラマになりました。

トマトマンさんが「つづき」を書いてくださったのはとても重要なことで、
それをもってこのドラマが良作であった証と言ってもいいぐらいのものです。
続編が作られるドラマが名作なのではありません。
視聴者が「その後」を想像できる余地をしっかりと作っているドラマこそが真の名作なんだと思います。
そして何度も繰り返し観て、新しい発見をし、さらに想像力を膨らませる。
深く愛されるドラマとはそういうものだと思います。

by ジャニスカ (2012-04-02 00:09) 

ジャニスカ

Shoさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
Shoさんのように自分の世代を象徴するドラマがあるというのはとてもうらやましいことです。
私は「ふぞろいの林檎たち」をリアルタイムで観たのはパート3からで、
1・2は再放送で観た世代です。私が観た頃はトレンディドラマ全盛期の中にあって、
このシリーズが描いているものはあまりにも生々しくてドラマとしては異質なものとして映っていました。
でも、何度も再放送を観て、自分も歳を重ねていくうちに身に染みてくるんですよね。
テレビドラマって楽しいだけじゃない、人間の奥深くにある目に見えない真理を描くことができるということを山田太一氏のドラマから教わってきたんだと思います。

「キルトの家」も教わることが多いドラマでした。
前にもお伝えしたかもしれませんが、宮本理江子監督は山田太一氏のご息女でして、
「キルトの家」とこの「最後から二番目の恋」を連想して観てしまったのはそういう理由もありました。
テレビドラマを作る仕事をしている以上、どういう形にせよ作品を通じてあの震災に
向き合わなければならないというようなお話を親子でなさるのはごく自然なことなのかなと。

>女の人にとって45歳頃というのは「そろそろ次の世代にバトンタッチ」する時期のような気もします。

これは、実際ドラマの中でもそういう描き方がされていました。
主人公の職業はテレビドラマのプロデューサーなんですけど、
一緒に仕事をすることになった脚本家が若い女の子で、いわゆる典型的な「リア充」なんですね。
最初は彼女の言動に腹を立てているんですが、しばらくするとあっさりと負けを認めてしまいます。
最終的には勝ち負けを超えた結論に辿り着くのですが。

やはりShoさんが観るべきドラマだと思います。Shoさんの世代のために作られたドラマですから。
前にも言いましたが、私の世代ではこのドラマを楽しめても実感は伴わないんですよね。
3ヶ月もしたらDVDがレンタルされると思います。
大笑いして明日を生きる勇気をもらってください。そういうドラマでした。

by ジャニスカ (2012-04-02 00:21) 

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