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家政婦のミタ [ドラマレビュー]

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『 家政婦のミタ 』
( 2011年 日本テレビ 全11回 )
演出:猪股隆一、佐藤東弥、石尾純、日暮謙 脚本:遊川和彦 出演:松嶋菜々子、長谷川博己、相武紗季、忽那汐里

良質なドラマに出会うと、最終回鑑賞後に改めて作品を振り返り、反芻する作業が気持ちよく、実に有意義である。そして、私は本作の脚本が大変緻密なものであったことに驚嘆している。これまでも複数回にわたってつぶやいてきたことだが、結城うらら(相武紗季)というキャラクターは、阿須田家にとっては義理の妹であり叔母でありという微妙なポジションにいて、どういう役割を担っているのか長いこと判断がつかなかった。私が考えたうららの役割は、三田さん(松嶋菜々子)はどこまでいっても他人だから、阿須田家と三田さんの中間という位置づけでストーリーを客観化する狂言回しであったり、あるいは笑わない三田さんの対極にあってこのドラマの喜劇的要素を担っているぐらいのことだったのだが、最終回を観て思わず唸った。もちろんある部分では、うららはこのどちらの役割も担っていただろう。しかし、彼女が阿須田家の「厄落とし」をしていたなどということを誰が考えつこうか。このような登場人物に対する観念的な意味づけは、若い脚本家にはなかなか思いつかない発想だと思う。

映画『おくりびと』(小山薫堂脚本)に古代人が用いていたという「石文(いしぶみ)」というコミュニケーション方法がエピソードとして組み込まれている。それ自体はとても抽象的な話だし、物語の本筋とは少しずれていてたりするのだが、人の死と同様に人間の根本に関わる概念であるような気がして、ずっと私の心に引っかかっている。すごく感覚的な物言いで申し訳ないのだが、最終回で明らかになったうららの役割もまた、人間社会の本質なのではないかと考えたりしている。具体性(あるいは科学的根拠)に乏しくとも、確実にそこに存在する「物事の仕組み」のようなものがあって、だからこそ世の中が円滑に動いているということがあるんじゃないだろうか。つまり、当然誇張はされているが、うららのように自身の意思に反して周囲に迷惑をかけてしまうタイプの人間は現実社会にも必ず存在していて、そのことを自覚してしまったとき、人間はどういう考え方をして、どういう行動をとるべきなのかという、ひとつのテーマがここにあったような気がするのである。

最終回においてうららは、周囲(阿須田家)をトラブルに巻き込むことを避けるべく、人と深く関わることを止め、感情を表に出すことも止め、好きではない男との結婚に踏み切る。しかし、うららは三田さんに頬を叩かれたとき、初めて自分が為すべきことを思い知るのである。うららは決して阿須田家を不幸にしていたわけではない。むしろ阿須田家の「厄」を拾い集めて処理していたのが彼女なのかもしれない。やはり「石文」のごとく具体的な根拠に乏しい話なのだが、ひとつはっきりしていることがある。それは、その人の考え方次第で、自分の境遇は前向きにも後向きにも変わるということである。自分を単なるトラブルメーカーだと考えていたうららは、だからこそ自分が阿須田家にとって必要不可欠な存在になることもできるという考え方に切り替えた。このようなうららの気持ちの流れは、一般社会において困難な事象に対峙している多くの人たちに勇気を与えるような性質を持っていたと思う。このようなうららの役割が第1話から意図されていたものだと考えると、それは「緻密」と表現するほかはない。同時に人間に対する鋭い観察眼とそこに物事の真理を見出してそれをドラマに組み込んでしまうベテラン脚本家の手腕が見えてくる。

さて、話は三田さんだ。前回、三田さんを笑顔にするためには亡き夫の両親の赦免が不可欠であるとつぶやいたのだが、それがなんと本編が始まる前、21時台に早くも打ち消されて、私は大いに混乱した。結局、三田さんは笑わないのではないかとすら考えた。いや、こうなったらなんらかの「飛び道具」を用意しているに違いないと考えていた。たとえば「変顔」で思わず笑ってしまうというような。しかし、ふたを開けてみれば、実に正攻法のやり方によって三田さんに笑顔がよみがえった。三田さんに笑顔をよみがえらせたものは、直接的には恵一(長谷川博己)の「旦那さんとお子さんのために」という論法だったわけだが、それ自体は本当にきっかけに過ぎないような気がしている。というのは、実際に三田さんの笑顔を見てしまうと、そういう理屈を超越したものを感じてしまったからだ。三田さんはあの時、業務命令だからでも阿須田家に懇願されたからでもなく、笑いたいから笑ったのであって、あの笑顔には彼女自身の「意思」が確実に宿っているのである。

私は三田さんのあの笑顔の根底にあるものは阿須田家への感謝だったと考えている。三田さんのその種の気持ちというものは、最終回を前に彼女の中にすでに醸成されていたものであることは本作を丁寧にご覧になっている視聴者ならば気が付くところだと思う。なぜならこの脚本はしっかりと筋を通して、三田さんの心情を構築してきているのである。だからこそ三田さんが笑顔を見せた瞬間とは、それが我々が待望していたものであっても興奮や歓喜をもって受け入れられるわけではなく、静かに心に染みるような性質を帯びてくる。阿須田家のひとりひとりの目を見て微笑む三田さんの表情は、彼女の気持ちを具現化したものなのだから、もはや驚く必要はない。松嶋菜々子さんの表情に自然と浮かび上がった笑顔には、それが浮かんだ瞬間にすべてを納得させてしまう不思議な力があった。この瞬間をわかりやすく言葉にすれば、三田さんの心情と表情が一致した瞬間であり、緻密な計算を感じさせる脚本とそれを的確に表現した女優の名演がここにある。

このドラマを総括してみようと思ったのだが、いざ振り返ってみるとこのドラマを具体的に定義する言葉が出てこない。実は本作が表現しようとしていることは何も難しいことはなくて、単純にホームドラマでありコメディドラマだったと言えばいいのかもしれない。その意味では『鈴木先生』の対極に位置づけることができるドラマである。本作は斬新なテーマ設定で視聴者に深い思考を促したわけではないし、トリッキーな演出で視聴者の目を引いたわけでもない。ありのままが台詞で表現され、ありのままが画面に映っていたドラマだと思う。このことは、きわめて異例なことだが、このレビューを本放送を一度観ただけで書けているということからも実感しているところだ。つまり、このドラマは「シンプル」なのである。本作はテレビドラマの伝統的手法を用いて、古典的ともいえる「家族」というテーマを、今という時代に適合させて表現しきった原点回帰のドラマだったのではないかと感じている。そして、最終回の焦点を「三田さんの笑顔」に集約させた手法は、このドラマを大いに盛り上げ、見事に数字に結びつけた。エンタテインメント性という意味でも大変優れた作品であったことを最後に付け加えておかなければならない。

高視聴率ドラマのレビューを書くのは初めてなので若干の緊張感がありましたが、時機を逸したくなかったので急いで執筆しました。これまでにない断定調の文章で失礼致しました。

(了)

  ▼▼▼ 『家政婦のミタ』 Twitterまとめ ▼▼▼  
  • e97h0017e97h0017日本テレビ『家政婦のミタ』。数字ほど面白いとは思わないが、遊川和彦脚本の安定感はある。『女王の教室』『斉藤さん』『曲げられない女』の系譜と考えられる。それがわかってしまった時点で今後の期待感は薄れるが、もう少し見守ってみよう。主演女優よりも長谷川博己さんのお芝居から目が離せない。10/16 17:26
  • e97h0017e97h0017日本テレビ『家政婦のミタ』第4話。長谷川博己さんの役が最低すぎて笑えるが、どこか生々しい人間の弱い部分が表現されているような気もする。いずれにしろ今度も簡単な役ではないのは確かだ。うららは面倒なキャラクターだが、物事の本質を簡略化して見せる狂言回しの役割を担っていると考えられる。11/03 19:34
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第5話。翔の行動は長男たる自覚と未成熟な精神の狭間で迷走する。家族を守りたい。彼の心情を的確に汲み取ったのが三田さんだった。そしてもうひとり・・・なんだかんだ言っても父親が自分の一番の理解者であることを知った時、翔の思いは報われる。表現しているもののレベルは高い。 11/09 23:55
  • e97h0017e97h0017直感的な推察なので聞き流して頂いて構わないのだが、うららが義理の兄に惹かれていくという流れがあるのではないか、と二人が会食するシーンを観て思う。最終的に三田さんが阿須田家を去る可能性は高く、その時ただの父子家庭になるとは考えにくい。再婚相手を見つけてやり直すのが健全な流れだろう。11/10 01:05
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第6話。結が思いのほか純粋で心が痛かった。かなり誇張されているが彼女が感じた疎外感は普遍的なもので、今回は多くの人の共感を誘うテーマだったと思う。父が語った名前に込められた意味は彼女の孤独を一瞬にして払拭するものだった。毎回しっかりとしたまとまりが感じられる本だ。11/16 23:12
  • e97h0017e97h0017今回も相変わらずうららの役割を量りかねている。11/16 23:14
  • e97h0017e97h0017「結」という名前は彼女がこれまで無自覚に果たしてきた家族内での役割を意味していて、そこに両親の深い思いが込められていると知った時、彼女は自分の価値をはっきりと自覚する。そして彼女の役割と価値を象徴しているのが妹の髪を「結う」という行為だったと考えられる。高いレベルの表現だと思う。11/16 23:46
  • e97h0017e97h0017「いつも真っ白でふかふかのシーツに寝れるってすごい幸せなことなんだね。もしかしてお母さんシーツを変える度に応援してくれてたのかな。一晩ゆっくり寝れば嫌な事があっても大丈夫だよって。お母さんが生きてる時に気づいてればよかった」些細な日常にいくらでも母親の愛情はあった・・・いい台詞。11/17 08:10
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第7話。ついに三田さんが感情の片鱗を見せた。頼まれてもいないのに阿須田家の家族の証を探すという「出過ぎた真似」は、恵一の苦悩する姿が彼女の心を動かした結果だろう。超過料金を請求するというお馴染みのパターンを変えることで、三田さんの心境の変化が巧みに表現されている。11/24 20:46
  • e97h0017e97h0017迷いを打ち消した恵一が子供たちの父親たることを願う時、三田さんの表情が二度挿入される。このカットで松嶋菜々子さんが本編中初めて「色」のある表情を浮かべたのが印象的だ。確実に演出だとは思うが、長谷川博己さんのあの感情的なお芝居を眼前にして「無表情」でいるのはそもそも無理な話だろう。11/24 23:54
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第8話。あらゆる不幸を味わった三田さんにとって、阿須田家なんていくらでも救いようがあると思ったに違いない。これこそが彼女が万能の家政婦たる所以である。阿須田家と三田さんの差は家族を構成するピースがそこにあるか、ないかだ。材料を欠く三田さんを救うことは容易ではない。12/02 21:08
  • e97h0017e97h0017冒頭の結の夢が示唆するものは興味深い。三田さんがうららで、うららが三田さんになる可能性だってないとは言えないのかもしれない。かといって三田さんが阿須田家のピースになるのは考えにくい。阿須田家は自立しなければならないのだ。私にはうららが喜劇的要素としてのみ存在しているとは思えない。12/02 21:09
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第9話。家政婦としての三田さんのモチベーションは劇的に転換した。もうあの業務命令を待つ必要はない。一方で未来へのひとつの選択肢が絶たれた以上、彼女自身が真っ直ぐに過去と向き合う必要がある。それはあの三田さんに動揺を誘うほどの困難な課題だ。阿須田家の方向性は見えた。 12/09 20:00
  • e97h0017e97h0017『家政婦のミタ』第10話。三田さんはラストシーンですでに阿須田家との決別を企図していると思われる。阿須田家には三田さんの代わりにうららの石が再び還ってくるだろう。三田さんに笑顔が戻ることは亡夫の両親からの赦免なくしてありえないと思うが、我々の想像を超える仕掛けが用意されているか。12/15 21:53
  • e97h0017e97h0017こうやってダイジェストを観て思うのは、忽那汐里ちゃんを筆頭にとんでもない4人がそろったんだなということ。このドラマを引っ張ったのが子供たちであることは疑いようがない。 12/21 21:55

 


家政婦のミタ 視聴率 40.0%


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Sho

実は私はこのドラマをきちんと見たことは一度も無く、そのような立場でコメントしてよいか迷いましたが
今感じていることを、そのままお伝えしたいと思いました。
先ず、私はこのドラマをずっと「フジテレビ」のものと思っておりました。
電車の中吊りで番組広告を初めて見たとき、「またいつものような、おんなじような、フジテレビの
トレンディドラマの尾を引きずったようなドラマかな・・」と思いました。
そのうち、あれよあれよと言う間にこのドラマの視聴率がすごい!!というニュースを目にするようになりました。そこで初めてyoutubeにアップされていたものをいくつか拝見しました。

ちょうどその頃、たしか脚本家の方の言葉として「東日本大震災に見舞われた人に向けて何か書きたかった」というような言葉を拝見しました。
その目的は、同じような言葉をもっと傲慢に語っていた田渕氏の「江ー姫たちの戦国」よりも、遥かに達したと思います。

ミタさんは、何よりも大事な夫と息子を亡くします。そしてそれは自分のせいだと思っています。
自分の意志で生きてはいけない。それは自分にとってかけがえの無い人たちを不幸にしてしまう。
ミタさんはそう思います。
夫と息子を亡くしてからのミタさんの生活は「懲罰」です。
大きな罪の意識を持っている人間にとって、自分に「懲罰」を課すことは、ある種の「安堵」でもあります。
そしてその「懲罰」を外すことに、たとえようも無い恐怖を感じると思います。

春の災害に限らず、大切な人を亡くし、それを自分のせいだと思い自己を責め続けている人が
今ほど多い時代は無かったように思います。
ミタさんは、その人たちの代表です。

人は時として、他者に「心を開け!」ということを簡単に言ってしまいます。
けれど、一人の人間が「心を閉じる」に至った辛い過程までは、あまり考えを及ぼしません。

阿須田家の人たちは、父親は父親で傷つき、子どもたちは子どもたちで傷ついています。

けれど、器用ではありませんが、この家族はミタさんのことを真剣に思い、心から「幸せになってほしい」と願い、それをミタさんに伝えます。

真っ暗な道を、ずっと歩いて来たミタさんに、灯りがともります。
それは、ミタさんの幸せを痛いほどに願う阿須田家の人たちの心です。「祈り」といえるかもしれません。


ジャニスカさんも指摘しておられるように、このドラマは特に奇をてらったり、人気絶頂のアイドルを使っていません。
丁寧に、丁寧に、脚本家、スタッフ、役者が、自分たちの仕事を誠心誠意考え全力を尽くした結果だと思います。

ここで私は「Jin―仁」を思い出しました。
脚本家、スタッフ、役者が、自分たちの仕事を誠心誠意している様子が、思いが、熱意が、伝わってきました。

一つ発見がありました。
ドラマは、そこに関わった人たちの心のあり様を映し出してしまうものだと気づきました。
「江」には、脚本家の怠慢と不勉強と自意識が、確実に反映されていました。

きちと見ていないものが、このようにコメントを書くことを申し訳なく思います。
けれど、ほんの少しですかこのドラマに触れて感じたことを書かせていただきました。

心を打つものは、結局は心なのだと思います。
それは、生き馬の目を抜くテレビ業界では鼻で笑われる言葉かもしれません。
けれど、このドラマの成功は、ドラマ制作に関わった全ての人たちの、祈りともいえる思いと
そこから導かれる努力によってもたらされたと、私は思いました。
by Sho (2011-12-23 10:19) 

ジャニスカ

Shoさん、コメントありがとうございます。
確かに大事な人を失った三田さんの存在を震災に重ねる解釈は可能だと思います。
ただし、それはあくまでも振り返ってみたときの「解釈」であって、
このドラマをリアルタイムで観た多くの人は、そんな感傷とは無縁のところにいたと思います。
というのは、本文で書いたとおり、このドラマはホームドラマであり、コメディドラマなのです。
遊川先生の震災に対する想いが潜在的に込められているだろうことは想像に難くありませんが、
だからと言って先生はこのドラマに主義主張を織り込んだわけではないと思います。
そういう押し付けがましさがまったくなかった作品だったと思います。
今日はこのドラマを観て、思いっきり泣いて笑って、明日を生きる勇気をもらう。
遊川先生の作品はいつもそう思わせてくれるし、私はテレビドラマの理想的なあり方がこれだと思っています。
震災で被災された方たちも、三田さんに自分を重ねたからということではなくて、
また義務感からではなくて自然と明日をがんばって生きようと思ったのではないでしょうか。
私は「こういうの好きだろ」とか「時代はこれを求めている」と言わんばかりに
「がんばってる日本人」を押し付けるようなTBSのやり方は間違っていると思っています。

はっきりいって遊川先生とあんな大河ドラマを書いてしまう人を同じ土俵で比較するのは失礼だと思います。
遊川先生は超一流の脚本家ですよ。今年はベテラン脚本家の活躍が目立った年だと思います。
やっぱり80年代後半から90年代前半までの空前のドラマブームの中で揉まれてきた方たちは、
発想が豊かだし、なにより表現力が洗練されています。重厚な表現とわかりやすさを両立させてしまう。
Twitterでも取り上げたこの台詞なんかその最たるものです。

「いつも真っ白でふかふかのシーツに寝れるってすごい幸せなことなんだね。もしかしてお母さん、シーツを変える度に応援してくれてたのかな。一晩ゆっくり寝れば嫌なことがあっても大丈夫だよって。お母さんが生きてる時に気づいてればよかった」

阿須田家の長女・結ちゃんの台詞なんですけど、この台詞を自分の身に置き換えない人はいないでしょう。
深いけど瞬時に心に響く。
それと4人の子供たちの名前が「結」「翔」「海斗」「希衣」なんですけど、
ここに亡き母親の深い想いが詰まってるんですよ。
こういうことを視聴者がすでに登場人物に感情移入している終盤に明らかにするところはテクニックですよね。

フジテレビにはこういうドラマは作れないと思います。
Shoさんが言うようにフジテレビだったらこんなキャスティングにはなりません。
特にあのポジションに相武紗季ちゃんをキャスティングできるのは日本テレビしかいません。
結果的に超重要な役だったし、とてもはまり役でした。
それと演出ですよね。
フジテレビのディレクターなら、もっと映像をガチャガチャいじったことでしょう。
幸か不幸か日本テレビにはテクニックを持ったディレクターが数人しかいないんですよね。
それが良かったんだと思います。愚直に丁寧にありのままを撮ったドラマだったと思います。

Shoさんの「発見」については、偉そうなことを申しますと、私はとっくの昔から気が付いていました。
テレビドラマや映画を今のような見方をするようになったきっかけこそが、この「発見」なんです。
テレビドラマを観て初めて「作り手の心」を感じ取ったときの喜びは忘れられません。
変わっているかもしれませんが、私はそれを感じ取ったときに感動が何倍にも増幅されます。
だからこそ私が感じ取った作り手の想いや裏側に隠された努力を多くの人に伝えたいと思いました。
Shoさんがおっしゃるように、作品の成功とは
作り手の真摯な心と不断の努力がその作品に映っているかで決まると思います。
私は作品を通じて常に作り手の想いに近づきたいと思っているし、
これからもこのブログを通じて私が感じ取ったものを発信していければと思っています。
そして読んでくれた人が映画やテレビドラマから今までとは違った感動を得ることができたら私の本望です。

by ジャニスカ (2011-12-23 23:46) 

dotsuru

文才がないので、うまく表現できないのですが、
第一話から最終話まで見て、なにかスゴい作品を一つ見終わったという感じがしています。

今まで見たドラマと違っていたと感じた点がひとつあります。
それは、阿須田家が本当の家族に見えてしまったことです。

家族をテーマにしたドラマは好きなので、今までたくさん見てきましたが、
そこで描かれている家族は、冷静に見るとやはり「作り物」に見えてしまっていたのですが、
理由はわからないのですが、今回はこの家族が、本物の家族に見えました。

父親は鈴木先生のときに拝見していた(このドラマを見るきっかけはそこでした)
のですが、4人の子供たちは今回初めて見た役者さんばかりだったのですが、
4人とも本当に感動するぐらい、それぞれの「役」を演じ切っていたと思います。

長谷川 博己には、次はどんなドラマで会えるのか、今から楽しみにしています。

by dotsuru (2011-12-26 09:36) 

ジャニスカ

dotsuruさん、コメントありがとうございます。
阿須田家が本当の家族に見えてしまった、というのは、
このドラマを観た多くの人が共有している感想だと思います。
その理由を私なりに考えてみたのですが、まず思いつくのはやはり脚本の力ではないかと感じています。
序盤から中盤にかけての子供たちそれぞれのエピソードはすごくよくできていて、
それらを演じる中で、4人の俳優さんは自然と役に溶け込んでいったのではないでしょうか。

それともうひとつ。こちらは私の想像の域を脱しませんが、
長谷川博己さんの舞台俳優としての経験がリアルな家族表現に貢献しているのではないかと考えています。
舞台って、座長(主役)の役割がとても大きくて他の俳優さんを引っ張っていくような存在だと思うんです。
座長がそういう姿勢を見せて、俳優・スタッフの信頼を得られるかで作品の成否を決まる。
長谷川さんが舞台での経験を生かして、子供たちを演じた4人の俳優さんの気持ちをうまくまとめて、
精神的支柱になっていたのではないかと。これは『鈴木先生』でも感じたことですが、
おそらく彼は、画面に映っていないところでもとても重要な仕事をしていますよ。
このドラマの「座長」は、松嶋菜々子さんではなくて、長谷川博己さんだったような気がしています。
繰り返しになりますが、これは私の想像です(^^;。

長谷川博己さんは、来年TBSの『運命の人』というドラマで重要な役を演じられます。
更なる飛躍が期待されますね。

by ジャニスカ (2011-12-27 20:44) 

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