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さまよう刃 [映画レビュー]

さまよう刃 [DVD]

[ DVD ]
さまよう刃
( TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) / ASIN:B0032UAFEG )

『 さまよう刃 』
( 2009年 東映 112分 )
監督・脚本:益子昌一 出演:寺尾聰、竹野内豊、伊東四朗
          Official Wikipedia / Kinejun          

本作品のテーマについての表現を原作との比較で論じれば、そのメッセージ性は非常に弱くなってしまっていると評価しなければならないでしょう。ただし、著名な原作に真っ向から取り組んで、それを凌駕した映画というものは、古今東西、いまだかつて存在したことはなく、映像と活字というその表現の性質をまったく異にする媒体を同じ土俵で論じるのはそもそもナンセンスということになると思います。

原作がある映画を評価するに当たって重要なのは、活字で表現されたものを映像という媒体に変換することによって何を表現できたのかということだと思います。したがって、映画化にあたっては、原作に忠実に表現することが必ずしも正解ということにはならないと私は考えています。ましてや長編小説の映画化にあっては、原作のストーリーに忠実に作るなどという考え方は早々に放棄しなければならず、映画を原作との比較で論じようとするときは、製作者が原作のテーマや世界観を適確に理解して臨んでいるかどうかということを重視しなければならないと思います。そのような観点で本作に対する私の率直な印象を申し上げれば、益子昌一監督は原作が表現するテーマと真摯に向き合い、何を一番に表現しなければならないのかということについて、試行錯誤を繰り返したのは間違いないと思っています。

以下、東野圭吾氏のコメントの一部を映画公式サイトから引用。

この作品の映像化は困難であったろうと素人ながら想像する。
光も華もないストーリーなの
だ。
だが完成作を見て唸った。
さすがはプロたちだ。物語の本質を理解し、光の代わりに闇を、
華の代わりに毒を描くことに徹した作品に仕上がっている。
多くの人に見てもらい、何かを感じてもらえたらと思う。

引用終わり。

東野圭吾氏が本作の出来を「プロの仕事」と評価し、賞賛しているのは、本作が映画という映像メディアだからこそ伝わる何かを表現しているということなんだと思います。

クライマーズ・ハイ』(2008年 東映=ギャガ)のレビューでも、著名な原作を映画化することの難しさにはすでに言及していますが、長編小説を約2時間の映像で見せるにあたっては、エピソードの取捨と登場人物の統合およびキャラクターの改変などの作業が必須であり、技術的にはほとんどその部分が作品のクオリティの可否を決定付けると言っていいでしょう。

本作の主人公・長峰重樹(寺尾聰)のキャラクターを原作と比較すると、彼の犯罪被害者遺族としての感情は、極めて抑制的に描写されています。たとえば娘の遺骸と対面するシーンなどは、寺尾聰さんの感情を容易に表に出さない抑制の効いた芝居がかえって我々の心を揺さぶります。長峰はその後も原作とは比べ物にならないほど台詞は少なく、そのことが「さまよう刃」の不気味さを表現すると同時に、観客に犯罪被害者遺族の心情を想像する余地と機会を与えており、このことはどうしても説明的になりがちな活字メディアでは表現できない、視覚に訴える映像メディアならではの効能ということができるでしょう。

そして、本作の少年犯罪についての問題提起と少年犯罪被害者遺族の心情に対する観客の理解を補完する役割を担っているのが、警視庁捜査一課の刑事・織部孝史(竹野内豊)ということになります。本作における織部は、原作に登場する複数の登場人物の役割を統合する形で存在しており、言うまでもなく最も重要な役柄ということになります。長峰の心情表現を演出上敢えて希薄にしているだけに、我々は織部の目を通して本作が描く問題提起の本質を見ることになるわけです。実際、織部は捜査員という事件に関わる当事者の一人でありながら、少年犯罪が被害者遺族に落とす理不尽さを率直に感じ、その憤りを隠すことはありません。このあたりの織部の心情描写は、我々が持っている一般的な感覚を代弁する役割を担っており、本作が提示する問題の本筋に観客を誘導する役割を果たしています。

また、登場人物の改変という意味では、木島和佳子(酒井美紀)のエピソードを大幅に捨てている一方で、それを逆手に取る形で和佳子の父・隆明(山谷初男)に、原作にはない、あるいは原作とは正反対のきわめて重要な役割を担わせています。言うまでもなく長峰に猟銃を手渡すという部分がストーリー上大変重要なわけですが、実はそれよりも重要なのがテーマ表現上の役割で、長峰と同じく「一人娘の父親」としての心情が彼の一連の行動を支配しているわけです。つまり、ここにも長峰に対する同情の念というものが普遍的な感情であるということが表現されており、ただのペンションの親父が突如として長峰を幇助する役割を果たすところに、その普遍性が強調されていると言えます。

※ 原作では丹沢和佳子。

本作と原作との決定的な差異は、長峰の菅野に対する殺意が終盤にはそれ以外のものに変化していくところで、主演の寺尾聰さんが本編の出来について漏らした「腹立たしさ」や「後悔」といった心情はおそらくこの部分についての感慨だったと思います。原作との比較論評が避けられない作品において、益子昌一監督が敢えて長峰の心情に「変化」を付与したのは、フィルム・ノワールのようなただただ悲観的な結末を嫌った結果だと私は解釈しています。そのことは原作にはないラストシーンの存在からも推察できるところで、このラストシーンはある部分では弱くなってしまった原作が持つメッセージ性を十分に補っているものだと思います。

長峰に対する同情の末、少年犯罪が被害者家族に落とす理不尽な陰に苦悩するに至り、彼らに何の手も差し伸べてやれない警察の無力さを痛感した織部孝史が、菅野快児が裁かれる法廷の傍聴席にいるというシーンを最後に持ってきている意味は、本作が「物語の本質を理解し」て作られたものであることを如実に物語っていると言えると思います。先にも述べたように織部が少年犯罪についての世間一般の感覚を代弁する存在だったとすれば、この事件を傍聴席で最後まで見届けようとする織部の姿勢と意思は、当然我々も保持しなければならないものであるということになると思います。現実世界においては少年が関わった重大事件というものは、発生当初はマスコミによってセンセーショナルに持ち上げられますが、火の点いたマッチのように消えたらもうそれまでで、世間の関心は薄れていきます。このラストシーンは、そのような一般的感覚のもうひとつの側面への警鐘の意味が込められていると考えられます。

法廷の傍聴席でしっかりと前を見据えた織部の真剣な表情から、この事件を最後まで見届けるという強い意志が読み取れます。そしてこれがフェードアウトすると、長峰が雪の上を歩く足音のみが聞こえてきます。これは、長峰が本懐を遂げられなかった、あるいは娘を死なせた犯罪者の行く末を見届けることができなかった無念さを抱えて、未だに彷徨している様を想像させるものです。これも活字では描写不能な映画ならではの表現であり、益子昌一監督の非凡な演出力が感じられるまとめ方だったと思います。原作では夏だった物語の季節的舞台を冬に変換しているのは、演出上、物語全体の雰囲気作りに大きく貢献していましたが、このラストにも巧みに結実しているということになります。

本作の演出面について物語の世界観の表現という観点からもう少し言及します。以前、『花のあと』(2010年 東映)のレビューで頻繁に挿入される実景ショットが作品の世界観を表現するという意味ではその用を為していないと酷評したことがあります。それに比べ、本作の前半で頻繁に登場する東京の実景ショットは、それ単体でも美しいカットが多いし、東京や大阪といった大都市を舞台としたものが多い東野圭吾作品の世界観を適確に表現するものだったと思います。いまひとつ「人」の存在が感じられない無機質とも思える東京の風景は、少年犯罪の被害者家族の心情を裏打ちするような役割を果たしていて、撮影監督の王敏氏の実力が遺憾なく発揮されている部分だと思います。

そして、作品の世界観の表現という観点から、絶対に無視できないのが劇中音楽の存在でしょう。川井憲次氏の音楽は、東野圭吾氏が「光の代わりに闇を、華の代わりに毒を」と評したように退廃的な要素を持つ本作の陰の部分を表現すると同時に、サスペンス的要素を大いに盛り上げています。聴く者の心の芯に響いてくるような川井氏の音楽は実に特徴的で、特に本作のような観客の心情に直接訴えかけるようなテーマを表現する映像作品では、その劇中音楽としての効果を遺憾なく発揮してくれます。川井憲次氏は日本における劇伴作曲家の第一人者だと思っています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

私がこの映画を改めて観てみようと思ったのは、ユナイテッドシネマでリバイバル上映されていたことと、現在フジテレビで放送されているドラマ『流れ星』を観て、竹野内豊さんのお芝居をもう少しちゃんと拝見してみたいと思うようになったからです。『流れ星』のレビューでそのお芝居を「新しいステージに到達した」という表現をしましたが、本作での竹野内さんのお芝居は、目下放送中のドラマにおけるお芝居と比して、物足りない印象を覚えてしまったのは否めないところです。ただ、本作に出演している俳優さんたちが一様に抑制の効いたお芝居を披露しているのは特筆すべき要素であり、竹野内さんがベテランの寺尾聰さんや伊東四朗さんのお芝居に大いに刺激を受けたということは想像に難(かた)くありません。

私が『流れ星』のレビューで触れた「台詞の外側にある表現」というものは、そもそもテレビドラマではあまり必要とされない要素であり、ひとつひとつの絵をじっくり見せる映画でなければ成立しない表現ということになると思います。竹野内さんは本作で獲得した映画的なお芝居をこのドラマに持ち込み、それを宮本理江子さんの演出が巧みに引き出しているということはすでに触れたとおりです。竹野内さんは出演した映画の数は決して多くはありませんが、本格派俳優を目指すならば、映画出演のキャリアというものは必須の条件であり、その中でも良質の作品にめぐり会えたということは間違いありません。

竹野内豊さんが主演する来年2月予定公開の『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』(東宝)が俄然楽しみになってきました。平山秀幸監督は、『必死剣鳥刺し』(2010年 東映)を撮った方ですが、役者さんのお芝居を正面から真摯に撮ってくれる監督なので、今の竹野内さんの魅力を存分に引き出してくれるでしょう。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★
 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★★
 音楽 ★★★★★


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(4)流れ星 [ドラマレビュー]

『 流れ星 』
第4回
( 2010年 フジテレビ
 公式サイト
演出:並木道子 脚本:臼田素子、秋山竜平
 出演:竹野内豊、上戸彩、北乃きい、松田翔太、稲垣吾郎

これまでのレビューでは主に本作の演出面に触れてきましたが、今週はストーリー上、大きな(?)進展があったので、 今日は今後のストーリー展開について言及してみたいと思います。

第3話までは、健吾(竹野内豊)が妹・マリア(北乃きい)の病を治すために、梨沙(上戸彩)に臓器提供を依頼し、形式的な婚姻を結ぶというあらすじで、今後の展開としては当然主人公二人の恋愛関係が注目されるところですが、今回はこのドラマが今後注力して描いていくであろう表現上のテーマについて掘り下げてみたいと思います。

ここまで見ていてはっきりしていることは、このドラマはふたつの兄弟の対比を描いているということです。「健吾=マリア」の兄妹は、健吾が必死に妹を救う方策を探していることからも強い絆がうかがえますが、「梨沙=修一」の兄妹は、共依存的関係を互いに断ち切れずにおり、梨沙は健吾とマリアの兄妹を羨望の気持ちを持って見守っています。

そのような兄弟の対比を前提に、私が今週回を見るまで考えていたこのドラマの概観としては、梨沙が今や「血」のつながりのみで成立している兄との関係を、極めて形式的に過ぎない「血以外」のつながりである健吾(竹野内豊)との関係によって断ち切っていき、いつのまにか互いに恋愛感情が生まれていくというような流れを漠然と予想していました。しかし、今回の終盤に出た健吾の母・和子(原田美枝子)の台詞で状況は一変します。

「お父さんとあの人が生きていたら・・・マリアを助けられたのかしら・・・」

あの人!!!私は思わず声を出してしまいました(^^;。

この台詞について冷静に頭を整理して考えると、健吾とマリアは異母兄妹ないしは血のつながらない兄妹ということになるはずです。その筋道は割愛しますが、要は健吾は血がつながっていない、あるいは理由ありの妹のために形(なり)振りかまわず、梨沙との形式的結婚という重大な決断をしていたわけで、血がつながっているのにどうしようもない関係を継続している梨沙と修一兄妹との対比は、より鮮明になってきたということができるでしょう。

こういう図式がすんなり頭に入ってくるのは、NHKの朝ドラ『てっぱん』の主人公・あかりが置かれている境遇とかぶるからでしょうか。私はそのような前提では一見ありえないように見える健吾のこれまでの行動にも大いに納得できるし、健吾とマリアの歳が離れすぎていることや母・和子がマリアの病室に入らないことなどの状況もこの事実を裏付けているような気がします。

それにしてもあの何気ない台詞一発で状況を一変させてしまうこの脚本はやっぱり優秀です。ここまでそれなりにあった健吾の家族についての漠然とした謎をこの台詞で解決させ、その台詞がさらに新たな謎を呼ぶというところはとても高度なテクニックだと思います。私は「あの人」は健在で、終盤にかけて登場してくる可能性(というより願望か?^^;)があるような気がします・・・。

ストーリーについてはとりあえず今日はここまでにして、もうひとつ取り上げておきたいシーンがあります。このドラマが役者さんのお芝居をじっくり見せるような演出手法を基本としているということにはすでに触れましたが、そのような演出がはっきりと感じ取れるシーンが序盤にありました。今回は連続ドラマは初演出となるサードの並木道子さんの演出でしたが、しっかりと宮本演出を踏襲してくれていることがよくわかるシーンでした。

スーパーで買い物をしていた健吾(竹野内豊)が理沙(上戸彩)と遭遇したシーンは、二人の全身が入る広い画面で捉えて、二人のひとつひとつの動きをじっくりと見せる長めのカットになっています。私は理沙と会話をしながら右に左に野菜をかごに入れていく竹野内さんのお芝居に終始釘付けでした。ひとつひとつの動きに役柄についての情報が詰まっているような気がして目が離せない、というより自然と「見ちゃうお芝居」とでも言えばいいのでしょうか。

また、このドラマでは食卓で食事をするシーンが毎回登場していますが、こういう「日常表現」というものは最も難しいお芝居のひとつであり、役者さんとしてはあまり余計なことはしたくないという心理が働きがちな部分だと思います。それにもかかわらず主演のお二人は、食事のシーンに役柄のキャラクターをつぶさに表現するような繊細なお芝居を積極的に織り込んでおり、私はこのドラマのひとつの見所にしています。

さて、このドラマのアウトラインと方向性がおぼろげながらわかり始めたところで、私としては早くも若干の達成感のようなものを覚えており、次回以降は少し落ち着いた気持ちで、主演のお二人のお芝居や宮本演出を堪能できそうな気がしてワクワクしていると言ったところです。

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  • e97h0017e97h0017早稲田大学の斎藤佑樹君には絶対にヤクルトスワローズに来てほしかった。ヤクルトファンとしては荒木大輔コーチの元で投げる彼の姿を想像すると興奮を禁じえないところでした。ヤクルトが同じく早稲田出身の藤井秀悟投手の移籍以来18番を欠番にしていたのは斎藤の入団待ちということだったはず・・・

(3)流れ星 [ドラマレビュー]

『 流れ星 』
第3回
( 2010年 フジテレビ
 公式サイト
演出:石井祐介 脚本:臼田素子、秋山竜平
 出演:竹野内豊、上戸彩、北乃きい、松田翔太、稲垣吾郎

先週の『新・週刊フジテレビ批評』に、TBSで『ふぞろいの林檎たち』や『高校教師』などの演出を手がけた鴨下信一氏がコメンテーターとして出演されていて、とても興味深いお話をされていました。

鴨下氏は近年のテレビドラマの質の低下を指摘した上で、その要因のひとつとして、連続ドラマ冒頭にある「前回までのあらすじ」の作り方が下手になってきていることを挙げていらっしゃいました。鴨下氏は例としてアメリカで製作されたドラマ『ホワイトハウス』を挙げて、海外ドラマにおける「冒頭あらすじ」はその日の回の内容にあわせて、過去のシーンをピックアップし、当該回のストーリーを盛り上げる役割をうまく果たしているとおっしゃっていました。これは作り手ならではの視点と言えると思いますが、このことは私が前回のレビューで述べたラストシーンにおける次回に向けての盛り上げ方とも繋がってくるお話だと思いました。

私はそのような鴨下氏のお話を踏まえて、『流れ星』の今週回に臨みましたが、冒頭のあらすじパートがそんなに下手な作りだとは思いませんでした。ただ、如何せん尺が短い。たった25秒でははっきり言って何も伝えられないでしょう。今回はセカンドの石井祐介さんの演出ということになりますが、私が必ずしも下手ではないと感じたのは、25秒という短い尺の中に巧みな編集で必要な情報をうまく取り込んでいるという技術的な観点からのものです。しかし、あれだけいいテンポで映像と台詞が流れていってしまうと逆に視聴者の印象にも残りにくく、これでは当該回のストーリー構成上、冒頭のあらすじパートの存在価値は薄くならざるをえず、形式的に付属しているに過ぎないものと感じられます。

前回のレビューで、近年の連続ドラマが1話完結型のストーリー構成を多用していることとその理由に触れましたが、視聴率という観点で言えば、確かに強い「連続性」というものはリスクが大きいかもしれません。ただ、「月9」のみならず、テレビドラマ全体の視聴率が頭打ちなのは周知のところだし、この際、そのような「連続性」のリスクを逆手にとって、もっと各話のつながりを強調するような演出によってストーリーを盛り上げていってほしいと思います。そのためには、ラストシーンの作り方がとても重要なのは前回指摘したとおりですが、そのラストシーンと冒頭のあらすじパートを巧みにリンクさせる演出も重要だと思います。

このドラマは、今のところ、いわゆるタイトルバックが存在していませんが、少なくともその分ぐらいの尺はこの「連続性」の表現に割いて欲しいところです。手の込んだタイトルバックを作るぐらいなら、主題歌とクレジットのバックに前回までのあらすじをなぞる映像を繋いでいく方が表現上の実利はよっぽどあるような気がします(タイトルバックというものはそれはそれでひとつの楽しみではあるが・・・)。あるいは冒頭で前回のラストシーンをそのままリピートするというのもひとつのやり方で、出来のいいシーンを有効活用するのは悪いことではありません。これらは何も斬新な手法というわけではなく、往年のドラマの中にはこのような手法を用いた作品は存在しています。とにかく25秒で前回まであらすじを説明しようとするのは無理のある話で、尺をあまりにもケチりすぎていることは間違いないでしょう。

私はこの『流れ星』というドラマを伝統的なドラマ制作の手法に回帰した作品として位置づけ、ストーリーのみならず、演出や構成の動向にも注目していきたいと考えています。

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  • e97h0017e97h0017ニッポン放送『武井咲と柳田理科雄のラジオ空想科学研究所』なう。今月からアシスタントが福田沙紀ちゃんから武井咲(えみ)ちゃんに交代しています。ラジオの彼女はドラマ『GOLD』の印象とは全然違っていて、声音と話し方がとてもかわいらしいことに驚いてしまいました。まだ16歳なんですよね。