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(10)全開ガール [ドラマレビュー]

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『 全開ガール 』
第10回
( 2011年 フジテレビ 公式サイト
演出:谷村政樹 脚本:吉田智子 出演:新垣結衣、錦戸亮、平山浩行、蓮佛美沙子、薬師丸ひろ子

ちょっと野暮な物言いかもしれませんが、本作のようなジャンルのテレビドラマにおいては最終回を前にした直前回が担うべき役割は、最終回を盛り上げるために最大級のレバレッジ(=てこ)を効かせることであり、多くの方が信じておられるように本作の結末を主人公二人が結ばれると仮定すれば、二人の関係をこれとは真逆の方向へと導いていくのが今週回の重要な役割だったと考えられます。つまり、本作の場合、前回のラストシーンで若葉が草太に振られたという事実を端緒として、二人が進んでいく未来へのベクトルを真逆のものにして、いかなる接点をも絶つことによってこそ、最終回は大いに盛り上がっていくということです。言ってみれば振り子を上記の結末とは反対のできるだけ高い位置にまで持ち上げるのが今回の役割であって、それが成功したかどうかは最終回を観るまではわからないものの、少なくとも私の期待感が高い位置に到達しているのは間違いありません。たとえば『大切なことはすべて君が教えてくれた』の最終回を思い出してみてください。レビューにも書きましたが、最終回を前に主人公二人が別れを選択する理由がまったく見当たらない、というよりも最終回を前に「結論」が出てしまっているのですから、我々は盛り上がりようがありません。つまり、あのドラマの制作者は振り子を1ミリも持ち上げなかったのです。

前回のラストシーンが素晴らしかったので、私は今回の冒頭で鮎川若葉(新垣結衣)のあの表情をもう一度見たいと勝手に思っていたのですが、谷村政樹監督はそんな私の期待を見事に裏切ってくれました。涙のかけらもない若葉の目の表情を捉えるファーストカットは、前回のラストシーンの影響を微塵も感じさせないものです。この冒頭で結婚式の打ち合わせをする若葉は山田草太(錦戸亮)に振られたことを引きずることなく、すでに頭を切り替えているし、草太はイクメン仲間の前で汐田そよ子(蓮佛美沙子)と正式に付き合うことを宣言してしまうし、もはや二人のベクトルは真逆の方向に進み始めています。この冒頭は前回の若葉の涙が意味するもの(=未練)を完全に打ち消しており、今週回が果たすべき役割は冒頭から早くも始まっているのです。しかし、この脚本が優れているのは、そんな二人の気持ちとは裏腹に二人の距離を物理的に縮めるエピソードを盛り込んでいる点であり、これがラストシーンの若葉の涙へとつながっていきます。

リリカ(浅見れいな)の再帰国が若葉と草太にもたらしたものは二つあって、ひとつは別の方向へと歩み始めた二人の物理的距離を一時的に近づけたことで、もうひとつは草太が自分の未来を積極的に切り開こうとするきっかけだったと思います。ラストシーンにつながる一つ目については後ほど言及するとして、まずは草太の決断について触れておきたいと思います。

二人の未来へのベクトルを真逆のものに導くにあたって、草太がビー太郎との別れを決断するくだりは必要不可欠なものであり、これがなければ草太のフランス留学は実現しないのです。言うまでもなくこの草太の決断は容易ならざるもので、そこに至る過程にはそれ相応の説得力を持たせる必要があったはずです。でも、今回描かれたように草太は意外にあっさりとビー太郎との別れを選択し、これを機としてかつて若葉に言われたとおり、自分の夢を追いかけるために積極的に動き始めるのです。もしかしたらこのあたりの草太の心情と行動描写に違和感を感じておられる方もいるかもしれませんが、私は若葉がビー太郎を引き取りたいというリリカの希望を告げに来た時点で、草太はほとんど結論を出していたと考えています。というよりもこの時点で、むしろ草太はビー太郎をどうやって説得するかを考えてたかもしれません。

リリカが登場した第7話のラストシーンを思い出してみてください。このとき草太が流した涙は、自分がビー太郎と一緒にいたいという打算で行動していたことを責めるものであり、ビー太郎のために自分が最良の選択をしてあげられなかったことを悔いるものでした。ここでいう「最良の選択」とは、ビー太郎は母親と暮らすべきであるということで、草太はビー太郎の「かあちゃんのにおいがする」という言葉を聞いてそのことを確信したのでした。したがって、リリカが再びビー太郎と一緒に暮らしたいと言い出したら、これを断る理由を持ち合わせていないのが草太なのです。私は第7話のエピソードは、そのラストシーンが象徴するように若葉と草太の関係を接近させるために存在していると考えていたのですが、それだけではなく、草太の気持ちを自分の夢に向かわせるための重要な伏線だったということに気が付いて、改めて素晴らしい脚本だと感心しています。

一方で若葉は、ビー太郎を引き取りたいというリリカの相談に乗るかどうか最初は逡巡しますが、そこには再び草太と顔を合わせなければならないことからくる迷いもあったでしょう。それでも若葉はあくまでも弁護士として努めて冷静に対応すると心に決めて、リリカの依頼を受けることにしました。つまり、若葉自身はある条件の下で草太との距離が再び接近することを許容したのであって、それは絶対に「物理的」なものでなければならなかったのです。しかし、草太がビー太郎を説得する場に立ち会うことで、若葉の気持ちは彼女が当初心に決めた意思とは相反する方向へと否応なく傾いていくのです。

二人の距離の接近がいつの間にか物理的なものから精神的なものに移行してしまったことを表現しているが、ビー太郎を背負った若葉と草太が佃大橋を歩くシーンで、このシーンにおける二人の最初の会話は若葉がそのことを無自覚であることを端的に示すものでした。

 「替わります」
「いえ、背負っていたいんです」

ビー太郎を背負っていたい・・・弁護士として冷静に対応すると決めていたはずの若葉の行動は、もはや完全に草太とビー太郎に感情移入したものへと変わってしまっています。さらに、このあとの二人の会話は「共感」をテーマにしたものであり、二人を取り巻く客観的状況を踏まえれば、実に切ないものになっています。

 「あんな底意地の悪いことを言うようになったのは、若葉さんの影響です」
「それじゃあ、私と同じじゃないですか」
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本作がその出会いから描いてきた若葉と草太の関係は、二人の人間的成長の結果、同一の価値観へと到達したのです。皮肉なことに二人の精神的な距離は、この瞬間が最小値だったのかもしれません。この瞬間の二人がその事実に対して無自覚であるところがこのシーンを切ないものにしており、実際次のシーンでそよ子の姿を目の当たりにした若葉は一気に我に返り、自分の行動が逸脱したものだったことを初めて自覚するのです。この直後、我に返って早足で歩く若葉が、前のシーンで登場した佃大橋を逆に歩いていたところは隠れた名演出だと思います。もう暗くなった橋の上をさっきとは逆方向に逃げるように歩く若葉は、ついには橋の上にしゃがみこみ、自分をひたすら貶めるのです。

 2011091702.jpg 「バカでねか!バカでねか!バカでねか!」

このカットは、前のシーンのラストカットとほとんど同ポジであり、これら二つのシーンにおける若葉の心情(無自覚と自覚)の対比を表現してようとしているのは明白でしょう。そして、自分の愚かさを思い知った若葉にとって、自分が進む道を変えることは絶対に不可能なものになってしまったのです。したがって、今回の冒頭に始まる二人が進むベクトルが結局のところ行き着いた先にあったのが、若葉と新堂、草太とそよ子、それぞれが抱き合うラストシーンであり、言ってみればこれが「振り子の一番高い位置」ということになります。このときの若葉が流した「何でだか止まらない涙」とは、あらゆる意味で草太との別離が決定的になったことに由来するもので、ある種受け身だった前回のラストシーンとは違って、若葉は草太との別れを能動的に認めたのです。

冒頭であえて言ってしまったように私はこのドラマの結末については確信していますが、振り子が真逆に振り切れてしまっている以上、どうやってそこまでの過程を見せてくれるのか、ちょっと想像が付きません。振り子が中途半端な位置にあればむしろそれをヒントにいろんな想像が可能なのかもしれませんが、ここまで徹底的に二人の接点を絶たれてしまうと、想像する余地がありません。ただ、ひとつ言えることは、振り子が振り切れているだけに最終的な感動の到達点も高い位置になるに違いないということです。私は、脚本の吉田智子さん、演出の武内英樹監督には全幅の信頼を置いています。絶対に我々の期待を裏切らないでしょう。

吉田智子さんがツイートしてたんですけど、このドラマは書いていても観ていても楽しくて、完パケを何度もリピートして観ているぐらい愛着のある作品だそうです。これは武内英樹監督をはじめ演出スタッフも同じだそうで、もちろん作品を観ればちゃんと伝わってくることではありましたが、作り手がこのドラマを愛してくれていることをはっきりと知ることができたのはとても嬉しいことです。作り手が作品を愛しているのは本来当たり前のことですが、近年のテレビドラマは作品を観ただけでこのことを実感できる機会は少なくなってきているような気がしていました。このブログを丁寧に読んでくださっている方にはどのドラマのことかお分かりと思いますが、物語が進むにつれて作り手が主人公のキャラクターをもてあますようになっていくのが手に取るようにわかるような作品もありましたよね。実はその作品が成功したのか失敗したのかを決めるのは、視聴率や視聴者の評判といった客観的なものではなくて、最終的に作り手自身がその作品を心から愛せるかどうかという主観的なものなのかもしれません。彼らはプロフェッショナルですから、自分の仕事の成否は自分が一番よく理解しているはずです。自分が納得していない作品を愛しているなんて言えるわけがありませんから。作り手が最後まで愛情を注いだ作品でなければ、それを受け止める人間の心を捉える資格はないのです。私は本作の最終回が必ずや我々の心を掴んで離さないものになると確信しています。

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