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龍馬伝 第32回 [ドラマレビュー]

『龍馬伝』
第32回

( 2010年 NHK 公式サイト )
演出:梶原登城 脚本:福田靖 主演:福山雅治

NHKの大河ドラマに対する私見を申し上げれば、
ドラマを見ることによって、視聴者が歴史を学べる、あるいは歴史に興味を持つという側面を製作者が軽視してしまうと、
視聴率云々以前に、その存在意義はいよいよ薄くならざるを得ないと思っています。
私は、小学生だった1987年の『独眼流政宗』以来、学生時代は大河ドラマを欠かさず視聴し、
日本史が大好きになった世代で、時代小説が大好きなのもその影響かもしれません。

しかし、近年の大河ドラマは、時代の要請を加味したものなのか、
視聴率の低下に歯止めを掛けるためなのか、ストーリーの核が「歴史ドラマ」から「人間ドラマ」にシフトしており、
製作者独自の解釈に基づいて創作された「その場限りのドラマ」をもって「歴史」を感じ取るのは困難になりつつあります。
そのような歴史を軽視したドラマのスケール感の減退は「大河」という名称にふさわしいものとは言えず、
ただの「ドラマ」でしかなくなっていると感じるのは私だけでしょうか。

本年の『龍馬伝』については、主人公の生涯が短いということもあって、
史実だけでドラマを成立させるのは困難であることは理解できるし、
その分「人間ドラマ」を膨らませて新たにエピソードを創作しなければならない事情も理解できます。
ただし、「人間ドラマ」を重視しすぎて、史実との整合性を軽視してしまう製作者の姿勢は理解に苦しむところで、
史実を都合よく歪曲して作り上げたストーリーは、視聴者に歴史に対する誤った認識を植えつけかねず、
大げさに言えば、そのような社会的責任をNHKはどのように考えているのでしょうか。

今回、『龍馬伝』を取り上げる気になったのは、
日本史における幕末を語る上で、最重要人物のひとりである近藤勇についての描写があまりにも杜撰だったからです。
「狙われた龍馬」というサブタイトルは、ちとタイミングは早いがいよいよ「寺田屋事件」かと思わせましたが、
ふたを開けてみれば、龍馬の命を狙ったのはなんと近藤勇だったわけです。
坂本龍馬と近藤勇が寺田屋でばったり遭遇したなどという史実があったとは思えませんが、
(そもそも面識があったかどうかも甚だ怪しい)
私はそのこと自体をどうこう言うつもりはありません。
今回どうしても言及しておきたいのが、「新撰組局長・近藤勇」についての人物描写です。

ドラマ制作上、製作者が今週回で描写したかった要素を整理すると、

(1)薩長同盟前夜
(2)龍馬とお龍の関係確認
(3)千葉重太郎の再登場
(4)龍馬と近藤の対峙

となると思います。(1)は史実描写にあたる部分で、(2)(3)(4)が人間ドラマと言うことになりますが、
製作者の「ドラマ作り」という視点で考えると、実は最も重要なのが(4)だったのではないかと想像しています。
このタイミングであえて「龍馬と近藤(新撰組)の対峙」を盛り込まなければならない理由は、ひとつしかありません。
このドラマの製作者は龍馬暗殺の下手人(犯人)を新撰組に仕立てようとしている可能性があります。
龍馬暗殺犯については歴史上最大級の謎であって、作り手の解釈が入り込むことを否定するつもりはありません。
しかし、ドラマのストーリーを製作者が意図した方向に導くために、歴史上の人物の言動を都合よく創作して、
史実との整合性を歪曲してしまう製作者の姿勢はちょっと褒められたものではありません。

今週回における近藤勇の行動について奇異と思われる描写を以下に示します。

(1)女に会うために単独で寺田屋に出入りしている
(2)薩摩藩士を名乗る初対面の武士を酒席に招き入れる
(3)すでに面識があるはずの龍馬の人相に気がつかない
(4)刀の柄で鳩尾(みぞおち)を突かれて半日以上気を失う
(5)龍馬の寝所を襲うが、同室していたのが千葉重太郎と聞いて逃げる

粗捜しに過ぎないと言われればそれまでですが、このドラマにおける近藤勇は、
・大変思慮の浅い人物で、
・なおかつ剣を抜く前に命を奪われかねなかった剣豪とは程遠い人物で、
・相手の名前を聞いて分が悪いと察すると逃げてしまう大変臆病な人物、ということになり、
少なくともこのドラマの製作者が近藤勇をそのような人物として表現したのは紛れもない事実ということになるでしょう。

さらに、寺田屋を後にした近藤は、「今回は見逃してやる」と言わんばかりの表情でその場を立ち去りますが、
攘夷派の岡田以蔵を逃がした「敵」を目の前にしてそんな甘っちょろいことがありえるでしょうか。
百歩譲って近藤が分が悪いと察したとしても、使いを新撰組の屯所にやって加勢を呼んだ上で再度襲撃するのが、
攘夷派掃討を任務とする新撰組の行動論理だと思います。あの場で龍馬と遭遇したのは千載一遇の好機ですから。
この近藤の行動は史実における新撰組の役割と大きく乖離しており、表現上も大きな矛盾を抱えているわけです。

その一方で、龍馬はというと、どういうわけか近藤が加勢を呼んで再度襲撃してくる可能性を微塵も想定せず、
あろうことか同じ部屋で笑いながら再度就寝しようとします。

龍馬は口先では、「わしのようなもんは、いつどこで誰に狙われよるかわからんですき」と言いながら、
あるいは「死んだら何にもならんぜよ」と言いながら、
その行動と自らの命に対する緊張感の無さは、表現の矛盾と言われても仕方がないと思います。

私は大河ドラマが表現する「人間ドラマ」というものは、
あくまでも史実の上に成立するものでなければならないと思います。

龍馬暗殺という史実について製作者の解釈が入ることを否定するつもりはありませんが、
史実を作るために矛盾に満ちた「人間ドラマ」を創作するのは本末転倒と言わざるを得ません。
作り手の都合で史実を歪曲し、その場限りで創作された人間ドラマには正直辟易しています。

私が見たいのは、たとえば『太平記』(1991年)における「観応の擾乱」という史実に基づいた
足利尊氏と足利直義の不毛な兄弟喧嘩がもたらす悲哀に満ちた人間ドラマです。
あるいは、たとえば『篤姫』(2008年)において政治上長らく反目しあっていた天璋院と井伊直弼が、
「桜田門外の変」という史実の前夜に、それぞれの言動の根底にあった共通の想いを知って心を通わせたのに、
一方が命を落とさなければならないという不条理な人間ドラマです。

関連記事 : 龍馬伝 最終回(2010-11-29)


タグ:大河ドラマ
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コメント 4

Sho

大河ドラマに関しては、そりゃあもう語れば尽きぬ思いがありますが、
ますはとにもかくにも「昨日の近藤勇」。
あれじゃあただの「よっぱらっいのスケベ親爺」ですよね!(笑)
何鼻の下伸ばしてんだよ!!!って感じ。
「おりょうちゃんが目当てで通ってる」というセリフを聞いたときでさえ、
まさか嫌がるおりょうの手を何度もつかもうとしたりしてる― なんて
思いませんでしたよ。
でもって、おいそかかろうとして立ち上がりかけたところを、みぞおちに
一撃、気絶。
近藤勇ってこんな人なの???これじゃあ、あまりに無様じゃないの?
と、思ってました。
by Sho (2010-08-09 21:11) 

ジャニスカ

Shoさん、nice!&コメントありがとうございます!

私は『龍馬伝』におけるこれまでの大河ドラマになかった「過剰な演出」には、とっくの昔に置いてきぼりになってしまっていて、一歩引いてこのドラマを拝見しているのですが、さすがに今回の近藤勇の描写についてはモノ申さずにはいられませんでした。

でも、民放のドラマと違って、NHKのドラマというのは、こんな内容でも作り手がすごく真剣に作っている感じが伝わってきて、どこか茶化せない雰囲気があるんですよね(^^;。茶化して酷評することもできたんですけど、NHKさんには大河ドラマの初心みたいなものを思い出してもらいたくて、ちょっと真面目に、そして理詰めで批評してみました。

Shoさんの大河ドラマへの想いもお聞きしてみたいです(^^)。
by ジャニスカ (2010-08-10 17:38) 

k_iga

十代の頃、どの大河ドラマだったか忘れましたが非常に感動したシーンが
ありました。後日、実は脚本家の全くの創作だったと知り
それ以来、大河ドラマは一切、観なくなりました。
今なら「ドキュメントではなく、ドラマだから」と割り切れそうですが
その時の落胆が忘れられなくて・・・(苦笑)。
by k_iga (2010-08-14 20:01) 

ジャニスカ

k_igaさん、コメントありがとうございます。
それは、とても悲しい出来事ですね(^^;。

実際問題として、小中学生にはドラマの脚色というものが理解できない場合が多いはずで、
大河ドラマにおいては、史実とフィクションのバランスは大きな課題だと思います。
『龍馬伝』は大河ドラマ史上最もそのあたりの配慮を欠いた作品だと思います。

k_igaさんに申し上げたいのは、
近年の大河ドラマは無理して観る価値はないのでご安心ください、
ということでしょうか(^^;
by ジャニスカ (2010-08-16 22:08) 

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