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岳-ガク- [映画レビュー]

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(C)2011 「岳-ガク-」製作委員会 (C)2005 石塚真一/小学館

『 岳-ガク- 』
( 2011年 東宝 125分 )
監督:片山修 脚本:吉田智子 主演:小栗旬、長澤まさみ
          Official Wikipedia / Kinejun          

(P)岳-ガク-

いかにもテレビのディレクターが撮った映画という感じの作品です。不特定多数の視聴者を想定しているテレビドラマがもっとも注力しなければならないことは「わかりやすさ」ですが、映画というものは必ずしも「わかりやすさ」が求められるメディアではないと思います。映画とテレビドラマの差はそれだけではありません。TBSの土井裕泰監督が手がけた『ハナミズキ』(2010年 東宝)のレビューでも触れましたが、映画は大きなスクリーンで観るものですから、大画面の情報量を生かすような絵作りがなされるべきです。また、観客がテレビよりも能動的に画面に対峙しているということも忘れてはなりません。

冒頭で遭難する青年(尾上寛之)は、本作のテーマ表現において最も重要な役割を果たすことになる存在ですが、そのあたりのことは後ほど触れることにして、この冒頭部分の演出はいかにもテレビ的な手法で成立していることを指摘しておかなければなりません。このシーンでは彼が遭難する原因、すなわち雪氷を歩行中にアイゼン(靴底に装着する滑り止めの金具)を脱いでしまうという愚行が描写されているわけですが、そのことを強調(=わかりやすく)するために、脱いだアイゼンを写した物寄りのカットがインサートされており、私はここに早くもテレビっぽい演出を垣間見た気がしました。さらに、このとき背負ったアイゼンがクレバスに落ちた際に氷壁に引っかかって彼は命拾いをすることになるので、あのカットはその後のシーンで彼の運命を左右する要素を強調して(=わかりやすくして)いたとも言えます。

私は本作が映画という媒体である以上、彼のバックショットを広い絵で捉えるだけでも脱いだアイゼンを背負ったことを観客に伝えることは十分に可能だったと思っています。なぜなら観客がその映像からあらゆる情報を得ようとスクリーンに積極的に向き合っているのが映画だからです。また、仮に観客に彼がアイゼンを背負っていることが伝わらなくても何ら問題はないし、その後のシーンで感動を生み出すためには、むしろその方が効果的だったのではないかとすら思うようになっています。ひとつ想像していただきたいのですが、あのカットが存在しない場合に、青年が遭難するまでの一連の描写から我々は何を感じたでしょうか。

青年が遭難した理由がアイゼンならば、命拾いした理由もアイゼンだったところがこのシーンの肝なわけです。ここから得られる感動は、あの物寄りのカットが存在しない場合の方がより大きかったはずだと私は考えています。あのカットを観ることによって彼がアイゼンを背負っていることをはっきりと知っている人間の感動は、彼が助かったという感動の中に脱いだアイゼンを背負っていて本当に良かったという確認的な意味合いが含まれてしまいます。それに対して、彼がアイゼンを背負っていることを認識していない人間は、彼が助かったということに加えて、彼が助かった原因が脱いだアイゼンだったことを知った二重の感動を得られるはずです。アイゼンへの物寄りのカットはここに至って初めてインサートされるべきものでした。

さらに終盤、山岳救助隊員の椎名久美(長澤まさみ)が重大な決断をするシーンでも、彼女がその決断に至る過程を補完(=わかりやすく)するためと思われるカットがインサートされていました。椎名久美が山岳救助隊員を志望した理由は、序盤はどちらかといえば消極的なものとして描かれていましたが、中盤以降、山岳救助隊長だった父親・椎名恭二(石黒賢)の存在が明らかになると、彼女のキャラクターは一気に深みを増してきます。久美は終盤のこのシーンで、遭難した父娘を救助するためにヘリコプターから山に降下しますが、娘の梶陽子(中越典子)を救助したところで天候がさらに悪化し、父・梶一郎(光石研)を残して撤退を余儀なくされます。このとき久美は、機上で陽子が必死に叫ぶ「お父さ~ん!」という言葉に自分の父親を重ね、自分の父親がその最期に為したことを思い出したからこそ、ザイルを切って再び降下するという決断に至ったわけです。

このあたりの久美の心情と思考の流れというものは、ここまでの物語を丁寧に観てきて、久美の亡き父親に対する想いをしっかりと解釈できている人には十分すぎるほど理解できるものだと思います。しかし、本編ではこのときの久実の心情を補完するために亡き父親の遺影をインサートするという、私に言わせれば「くどい演出」を施してしまっています。実はこの直前に陽子が叫ぶ最後の「お父さ~ん!」を周囲の音をオフにすることによってはっきりと際立たせる素晴らしい演出が為されていて、それだけで久美の心に自分の父親がよぎったことが巧みに表現されているのです。それにもかかわらず、父親の遺影という「久美の心の中そのもの」を直接見せてしまうというのは、はっきり申し上げて余計なことだし、つまらない演出だと思います。私は陽子の必死の叫びを聞いている久美の心情というものは、あくまでも我々が想像するものでなければならなかったと思っています。

「わかりやすさ」が時に観客から感動を奪ってしまうのはよくあることで、映画監督はこのあたりのバランスによく注意を払わなければならないと思います。冒頭のシーンではあのカットのおかげで、青年が助かった理由はわかりすぎるほどのものとなりましたが、その分感動は半減してしまったわけです。同じ感動でも作り手から押し付けられた感動と観客が能動的に感じ取ろうとして得た感動では、その性質が大きく異なります。どちらの感動の方がより深く観客の心に刻まれることになるのかは言うまでもないと思います。久美の決断に至る心情は、そのものを直接見せられてしまうことによって、むしろその印象を薄くしてしまっているのは間違いないと思います。映画監督の仕事とは、感動の本質をわかりやすく説明することではなく、観客が能動的にその感動にたどり着くための道筋を仕掛けていくことだと思います。テレビのディレクターが映画に進出するようになって久しいですが、映画監督になった以上、はっきりとテレビから映画に頭を切り替えてその演出に臨んで欲しいと思います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

以上のことは本作の演出面についてのレビューであって、そのことをもって本作が駄作だと思われてしまうのは私の本意ではありません。本作が描いたテーマは私の想像を超える素晴らしいものだったと思っています。私は学生時代にエドワード・ウィンパーの『アルプス登攀記』というノンフィクションを読んで以来、「山岳小説」というジャンルをたくさん読むようになり、地上にいながらも、山に魅せられて山に登り続ける人たちの価値観というものを少しは理解しているつもりでいました。しかし、本作で描かれた山に魅せられた人の価値観、すなわち主人公・島崎三歩(小栗旬)が山岳救助ボランティアという仕事のバックボーンとしている価値観というものは、私がこれまで読んだどの小説でも描かれていなかったもののように思います。

この映画の原作漫画のタイトルには「みんなの山」という副題が付いているようです。私は本作を見る前は、この副題が意味するところがいまひとつピンとこなかったのですが、「みんなの山」とは、島崎三歩が本編中一貫して体現しようとしてきた「主義」のようなものを端的に示した言葉だったということに観終わってから気が付きました。

島崎三歩が山を愛する理由とは何でしょうか。自分の生身の体ひとつで山頂に登りつめる達成感、山の頂から見える景色とそこにある空気、そしてそこで飲むコーヒーの味・・・もちろん彼が最初に登場するシーンで描かれたものが、彼が山に魅せられた理由の中でも大前提となるものでしょう。しかし、三歩が山岳救助ボランティアという仕事に彼自身が命をかけて取り組んでいる理由はそれだけで説明がつくものではありません。三歩の山に対するあらゆるモチベーションは、自分が愛する山が自分だけではなくて多くの人によって愛されることで初めて成立するものなのだと思います。つまり、山の魅力を「みんな」と共有していることにこそ意味があるのです。

まず、序盤に三歩が力及ばず救えなかった横井修治(宇梶剛士)の息子・ナオタ(小林海人)を勇気付けるための三歩のやり方ほど彼らしい行動はなかったと思います。父親と食べることができなかった「男飯」をいつかあの山で食べよう、それができたとき父親の死をただの悲しみから生きる勇気に変えることができるのだから、山を嫌いになってはいけない・・・それを伝えるために三歩は山を下りて、ナオタに会いに行ったのです。そして三歩はナオタが山に登れるようになるその日まで彼に寄り添う決意をします。また、クライミング中に落石によって命を落とした学生をフォール(遺体を山下に落とすこと)せざるをえなかった三歩が、学生の父親からその行為を責められたときには、土下座までしてその責を一身に受けようとします。このときの三歩の心情には、山を好きだった息子さんを責めないで欲しいという想いがあったのではないでしょうか。三歩にとっては、山を愛して、山で命を落とした人間が責められることが何より辛いことだったはずです。

 「久美ちゃんは、生きよう」

そして、新人山岳救助隊員・椎名久美が人知れず抱え続けてきた過去に接したとき、三歩が笑顔で久美にかけた言葉もまたとても彼らしいものだったと思います。これは久美がこれまで背負ってきた過去とその過去からこれからも目を背けることはできない彼女の人生を究極的に単純化した言葉だと思います。この言葉によって久美の生き方はどれほど楽になったでしょうか。山に捨ててはならないものは、命です。単純明快ではありますが、本編でも複数のエピソードで描かれているとおり、それでも時として一番大事なものを奪ってしまうのが山なのです。山を愛し、山に向き合い続けるということはおそらく簡単なことではないと思います。島崎三歩は、彼自身が山で親友(波岡一喜)を失うという経験をしており、それでもなお笑顔を絶やすことなく山にいるというところが、彼が山で為していることに深い説得力をもたらしています。

 「また、山においでよ。」
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これは三歩の台詞で、本作のキャッチコピーのひとつにもなっているものですが、私はポスター等に使用されている「生きる。」よりもこちらの方がずっと好きです。本作のクライマックスシーンを振り返ると、まさに「生きる。」がぴったりのストーリーなのかもしれませんが、島崎三歩という存在そのものが本作のテーマだとすれば、「また、山においでよ。」は、島崎三歩の意志を的確に表現し、彼の存在そのものを象徴している言葉だと思います。そして、三歩が山を訪れたすべての人に伝え続けているこの言葉に対する返答がこれです。

 「また、来ちゃいました・・・」

冒頭で遭難した青年と山で再会したときの喜びは、三歩にとっては山頂で味わうコーヒーと同等の感動があったはずです。自分が愛する山を彼が嫌いにならないでいてくれたことに三歩はどれほど感激したことでしょうか。彼が山を下りない理由、山の魅力を伝え続ける理由は、冒頭のシーンとこのラストシーンがつながることによって見事に表現されていたと言えます。そして、本編中もっとも魅力的な島崎三歩の笑顔を我々はここで見ることになるのです。

プレビューに書いたとおり、この島崎三歩という役柄が小栗旬くんにぴったりのキャラクターだったことを本作をご覧になられたほとんどの方に同意していただけると思います。ただし、私の彼を見る目は厳しいので、同時に彼ならもっとできたはずだという思いもあります。本作のような役柄からは随分遠ざかっていたので、無理からぬことかもしれませんが、今後の小栗旬はこの方面のお芝居をもっともっと磨いていくべきだと思います。私は小栗旬くんにはもっと早い段階で、本作のような役柄を与えるべきだったと思っていて、近年の民放ドラマプロデューサーのキャスティング力や俳優の魅力を引き出す能力の低さにはほとほと呆れています。白い歯を見せて笑う、それだけのことで彼の魅力は倍増するのに、それを完全に封印したプロデューサーがいたことには彼のファンではなくても憤りを覚えます。ちょっと遠回りをしたかもしれませんが、本作で新しい魅力を開花させた小栗旬に今後も注目していきたいと思います。

関連記事 : (P)岳-ガク- (2011-05-07)

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★★★
 配役 ★★★☆☆(決してはまり役ではなかったが、長澤まさみちゃんには「よく頑張った」と言ってあげたい。)
 演出 ★★★☆☆(ラストのコブクロさんによる主題歌の導入部分は本当に素晴らしかった。)
 映像 ★★★★(北アルプスの空撮は映画作品で見る映像としては目新しさと美しさを伴っていたと思う。)
 音楽 ★★★☆☆


タグ:長澤まさみ
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jun

ジャニスカさん、こんばんは♪
「読み流して」と書かれていた前段部分、おもしろく読ませていただきました。
私は、「山を甘く見た登山者が安易にアイゼンを脱いだ」くらいにしか理解していなかったので、「遭難した理由がアイゼンならば、命拾いした理由もアイゼン」という意味が含まれていたなんて、目から鱗でした。
こういうふうな分析も、おもしろいですネ ^^
by jun (2011-06-01 23:32) 

怪しい探麺隊

はじめまして。
同じ映画を観たのに、比較にならないほど深く考えているなぁ...と驚きました。
フォールした青年の親に土下座するシーンとその後のバクバクメシ喰ってるシーンに関して、今ひとつピンと来ていなかったんです。(長澤まさみ=久美のセリフにもありましたが。)
親の理不尽な怒りは、やり場のない感情の捌け口がどこかに必要だったということは心情的には十分に理解できていたんですが、それを受ける三歩の土下座は「大人しく言いなりになってとりあえず激情を鎮めるため」くらいにしか思っていなかったんです。
「山を好きだった息子さんを責めないで欲しいという想い」には、気付きませんでした。。。
by 怪しい探麺隊 (2011-06-02 00:31) 

ふじき78

こんちは。

最近たまに思うのですが、テレビなどで画面上にテロップが出るじゃないですか。
そろそろあれが映画にも来るのじゃないか、と。
そういう映像をずっと見てきた世代には、そこまでやらないと分からないんじゃないか、と。
映画とテレビは本来違う物ですが、テレビが映画に触れるより前に生活に溶け込んでいる今、実はとことん分かりやすくしないと途中で飽きちゃうんじゃないか、と。

というのは憶測です。生まれた頃からテレビはあったけど、昔は今ほど分かりやすい映像にはしてなかったから、私はまだテレビと映画が違う映像と言うのはピンと来ます。今後は分からんかもなあ、とか思います。
by ふじき78 (2011-06-02 00:51) 

ジャニスカ

junさん、こんばんは~。ご来訪いただきありがとうございます!
いい映画ほどひとつひとつのカットに必ず意味があるはずですから、
それを汲み取ろうとする作業はとても楽しいものになると思います。
冒頭のシーンではひとつのカットに過剰に意味を込めてしまっていて、
ちょっと残念な演出だったと思っています。
ただ、このことは私の印象の問題ですし、作品の出来を貶めるほどのことでもありませんので、
全体としてとてもいい映画だったという思いに変わりはありません。
前半部分に興味を持っていただけて本当に嬉しかったです(^^)。

by ジャニスカ (2011-06-02 18:58) 

ジャニスカ

怪しい探麺隊さん、はじめまして。nice!&コメントありがとうございます!
お褒めいただき恐縮です。つまらないことばかり深く考えております、、、(^^;
実は私も、山を愛し、山に登り続ける人たちの気持ちというものはやはりピンとこないのです。
でも、山を知らない人でも想像することは可能だし、
想像できるように作ってあるのがこの映画で、その点が本作が良作たる所以だと思います。

我々が想像可能な手掛かりとなる要素を作り手が意図して設けていないとすれば、
我々が想像力を働かせるのはバカらしいかもしれません。
でも、作り手が想像する余地をしっかりと作ってくれているのなら、
我々も精一杯想像力を働かせて、作り手の作品に賭ける想いに報いなければならないと思います。

私は、映画を観るとき、受け身なのはもったいないと思っていて、
もっと想像力を駆使して作品世界に積極的に飛び込んでもいいのではないかと思っています。
そういう積極さを受容してくれるのが映画であって、これはテレビが持ち得ない要素だと思います。
私の文章を読んで、映画の新しい見方を知っていただけたらこんなに嬉しいことはありません。

by ジャニスカ (2011-06-02 19:00) 

ジャニスカ

ふじき78さん、はじめまして。コメントありがとうございます!
また、私のつたない文章を丁寧に読んでいただき、ありがとうございました。
ただ、本文の前半部分に書いたことは、あくまでも作り手側の意識の問題であって、
受け手の想像力のレベルや映画に対する意識を考慮したものではないことにご留意ください。

本文の冒頭節で述べた「映画とテレビの差」は絶対的なもので、未来永劫変わることはないはずです。
テレビ的手法に飼い馴らされてしまった受け手がいることは事実かもしれませんが、だからといって
映画がその表現手法を変えてテレビとの線引きが曖昧になることを喜ぶ受け手は多くないと私は信じたいです。
そんな事態になったら、映画という表現が内外から多くの支持を失うことになるのは間違いないし、
それにもかかわらず、ふじき78さんがおっしゃるような表現手法を選択する映画監督が現れたら、
その人は映画に対する愛情や志を欠いている人ですから、そのときは本気で酷評しなければなりません。

私は、このレビューで片山修監督が志の低い映画監督だということを言いたかったのではありません。
私は片山監督のドラマ作品をたくさん観させていただいていますが、常にレベルの高い仕事をされています。
本作にあっても映画作りに対して真摯に取り組んだということはひしひしと伝わってきました。
それでも本文に書いたような演出手法を採用してしまうのは、テレビマンの習性とでも言えばいいでしょうか。
テレビの世界では「わかりやすさ」ということをプロデューサーから口を酸っぱくして言われ続けます。
不特定多数の視聴者に番組を見てもらい、広く支持を得るためには「わかりやすさ」が必須条件だからです。
でも、映画の観客は決して「不特定多数」ではありませんから、同じ手法で撮るのはそもそも無理があります。
私はテレビのディレクターが映画を撮ることを否定するものではなく、
むしろディレクターから映画監督へという流れが当たり前になってきていることを夢のある話だと思っています。
ただし、その暁には、はっきりと名実ともに「映画監督」になってもらわなければならなりません。
映画監督になった以上、彼らにはその特性を最大限に生かし、その魅力を最大限に引き出すつもりで
真摯に映画作りに取り組んでいただきたいと強く願うものです。

by ジャニスカ (2011-06-02 19:03) 

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